本田由紀氏講演会「社会変化のなかの教育・仕事・家族」(3月18日)

本田氏(id:yukihonda)と熊沢誠氏は師弟関係だと思っていたら、この日が初対面だったとのこと。
労働を基準とした――というか通常の――議論では、「社会参加できる人」が当たり前の前提になってすべての話が進んでゆく。 これでは「ひきこもり」は徹底的に置いてきぼりになる(まさに「人間ではないもの」として)。 ▼ひきこもりについては、「言説レベルでの論点構成」を政治的に続ける以外ないのだと思う。
質問時間(計十数名が質問)に、「ひきこもりのように社会行動が取れない人や、人間関係が作れずに継続的な就労ができない人はどうなるのか」という趣旨の質問をした。 以下、本田氏によるお返事を列記してみる。(記憶とメモに頼ったもので、逐語的ではない)

  • 読書会チャットは読みました。よりにもよって昨日で*1、打撃を受けました(笑)」
  • 「雇用機会があっても継続的就労ができない存在については、行き詰まってしまう」
  • 「マクロな、システム論的な捉え方をする私からすると、ひきこもりは《消失点》のようになってしまう」
  • 「もちろん、ほうっておけばいいとは思わない。そういう存在を認めた上で対応が必要」
  • 「人間関係を結ばないでも収入を得られる方策を考えられないか(在宅での仕事など)」
  • 「講演で話したような大枠とは違う工夫や発想が必要だが、具体的にどうして行くかについては描けていない」

私は本田氏の掲げる、「目指すべき若年労働市場」の概念図*2や、「教育の職業的意義を高める」という指針(システムレベルでの合理化徹底)を支持していて、これはこれでものすごく大変な事業のはず。 そのミッションに突き進み、ひきこもりについては「別の対応が必要」と語ってくださっている本田氏に、あえてこれからも「政策的論点としてのひきこもり」を提示し続けるべきだろうか。 ▼社会的・政治的な論点構成の必要はもちろん消えないが、端的に、訴える窓口がちがう気もする。

    • 質問時間に発言した男性の一人が、不登校問題に関わってこられた山田潤*3であることに気づき、驚く。 「子供を教育で無理やり社会化しようとする話に抵抗がある」(大意)とのことで*4、これはぜひとも必要な話なのだが、やはり「不登校」サイドからの話であり、「ひきこもり」側からはエクスキューズが要る。▼不登校運動は、個人の強制的な近代化に抵抗する話。 ひきこもりでは、近代化=合理化が本人の中で内面化されて強迫観念化しており、単に外在的に近代化に抵抗したり放置したりするだけでは、「見殺し」にしかならない。
    • 講演会の全体を「・・・・疲れました」とつぶやくように締めくくった本田氏は、明らかに過労状態に見えた。 「地味な調査研究者」*5が、とつぜん国会議員のような役回りをしている痛々しさ・・・。▼この講演会は労働組合的な問題意識の場であり、かつ私自身が「陳情団」の一人であり、というのが、どう考えたらいいのか・・・。




*1:この読書会チャットがchikiさんのところでアップされたのは、本田氏の講演会前日の3月17日だった。

*2:「ニート」って言うな! (光文社新書)』で言えばp.81の図c。 質問時にも、講演で取り上げられたこの図を支持していることを表明した。

*3:ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)』訳者のお一人でもある。【退官記念講演時の熊沢誠氏の言によれば、この翻訳の功績は「あくまで山田潤にある」(大意)とのこと。】

*4:あの80年代の事情を知っている山田氏が、「80年代から90年代にかけて、学校に行かない子供がいかに異常な扱いを受けたか」と熱く語るのを聞き、個人的な記憶を刺激されて(いい意味で)強くうろたえた。【個人的面識はありません】

*5:ご自身の表現