「症候を自分で決めることはできない」

 ラジオの番組のなかで本田さんが、柳瀬さんの「なんでもいいからとにかく働け、働いてみないと、働くことがどういうことかなんてわからない」という発言に対して、「回転寿司を食べて一度食中毒になったことのある人間は、寿司の皿を選ぶ以前に、回転寿司に対して恐怖を感じる」というようなことを言っていた。 でも、これは問題のすり替えである。 職業選択の問題が、なんの疑問もなく消費の問題に喩えられてしまうことにとても違和感を感じながら、私は彼女の話を聴いていた。

《食中毒》は、就労を「回転寿司」の比喩*1で語っていた玄田有史氏に、あるイベント内で反論したもの
この比喩の核心は、「消費」ではなく「本人の意思的努力によってはどうしようもない」にある。
ひきこもりの深刻な事例では、「このままでは死ぬよ」と言われても社会参加はできない。

    • 「働かない人間」が問題になるとき、思い浮かべる事情やイメージがお互いであまりに違っていて、それが「会話が成り立たない」大きな理由になることがある。 たとえば「ひきこもり」についてそれぞれ2000例以上に対応している工藤定次氏と斎藤環氏ですら、対談内で「ひきこもり像」への理解が異なった【参照】。



一般の社会生活には、「病気でも障害でもないのに、どうしてもできない」という状態を説明するための言説の枠組みがない*2。 それゆえ、事情をよく知らない人はいつまでたっても「心がけ」の問題に還元するのだが、実際にはむしろ本人自身が義務感や無力感でパニックに陥っている*3。 その状態でさらに外部から「〜〜すべきだ」を押し付けても、状態を悪化させることにしかならない*4
「働かない」という状態が、意識的な選択行為でしかないとしたら、金がなくなれば働きに出るだろう。 あとはそれを可能にする制度的整備*5をするだけだ。――ひきこもりは、それでは掬いきれない話として成立している*6


ただ、メンタリティのあり方を深く規定する「消費」というロジックについては、ひょっとすると《近代》という大きな枠組みとも関連して、ぜひ話題化したい。 よく「時代によって意識や文化のあり方が変わる」といい、「モダン」「ポストモダン」などと言ったりするが、それが消費文化の成熟と関係ないわけがない。 ▼ちなみに不登校は、こちらの資料によれば、1975年〜80年ごろを境に急速に増えている。


考えてみると、「不登校は病気じゃない、自分で選んだんだ」とする1980年代後半からの不登校運動*7は、「既存の学校制度は、消費対象として成熟していないから拒否する」という、一種の「消費者運動」とも見なし得る。
そこでは、

    • 魅力的な消費対象=教育制度を整備できなかった既存社会への批判
    • おかしな選択肢を「選ばない自由」を肯定すること
    • 代替的な教育制度を自力で生み出すこと

などが課題になる。


消費文化のさなかでは、「不登校は自分で選んだ状態なんだけど、文句ある?」は、批判できない。 それは不可避かつ症候的な逸脱に、「選んだのだ」という決定幻想を後から(事後的に)あてがったものだといえる。 つまり「自己決定フェティシズム*8は、不可避かつ症候的な逸脱が起こったあとに、抑圧的な事後的リアクションとして経験されている
そこでは、最初に起こった最も大切な倫理的・症候的契機――不可抗力の逸脱という不気味さ――は、抑圧・隠蔽されてしまう。 私は、単に消費者として「学校を選ばなかった」のではなくて、「行こうにも行けなかった」のだ。 【不登校経験者のうち、「行かなくてよかった」と答える人は27・7%にとどまる。】




■仲俣氏:

 だから問題の本質はこうなる。 いま「働かない」と言われている人たちは、上のような「消費主体」としての生き方を拒否し、その結果、「消費としての労働」を拒否しているのか、それとも、まだ自分の欲しい「商品=仕事」が選択肢として示されないから、そのような商品が目の前に示されるまで、購入を見送り続けているだけなのか。

ここには、「意識的に労働に順応しようとしてもうまくいかない」という不可抗力の契機が描かれていない。 「意識で決めればその通りになる」という話になっている。 しかし本当に問題なのは、「順応しようと思って努力してもうまくいかない」ということだ。
皮肉なことに仲俣氏は、内田樹を引きながら、「自分のことを自分で決めることはできない」という話をされている。 この違いは大きい。 ▼内田−仲俣氏は「成功を自分で決めることはできないが、失敗は自分で決めている(だから改善せよ)」という話になっている。 いっぽう私はここで、「成功に向けて努力しても、失敗は自分で決めることはできない」という話をしている。



*1:「あまり良いネタは回ってこないが、座らなければそもそもありつけない」

*2:参照:「新しい役割理論的な位置づけが必要だ」(斎藤環

*3:1980年代後半に登場した、「選択した状態なのだ」という承認言説は、原因不明のまま追い詰められた場所で事後的に成立している。

*4:そこで考える必要があるのは、ご家族や行政との関係を「公正さ」や「正義」の観点から見た、《交渉》という考え方だと思う。 ▼「ひきこもることを全面肯定し、一生扶養してくれ」というのも、重要な交渉テーマであり得る。 しかし、支援者を名乗る人間がイデオロギー的全体性で無条件肯定を押し付けるのみで、扶養のための費用すら出さないというのでは、扶養義務を負うご家族への《恫喝と圧政》になってしまう。 【「無条件肯定」の言説が、本人への一時的な承認になり、そこに外部世界への契機があり得るとしても。】  ▼これについては、あらためて詳細に検討する。

*5:制度的な議論としては、本田由紀氏を支持したい。

*6:「掬う=救うことは公正さであり得るのか」は、論点として残る。

*7:cf. 貴戸理恵不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ

*8:社会学的には、再帰性過剰流動性の生み出す問題だと思う。