「自由をとるか、命をとるか」

《意味形成の権限》と《存在の無条件肯定》が排除しあうロジックは、雇用関係や社会保障でも貫徹しているように思う。 ▼「あれこれ意見したいなら、保護は諦めろ。保護されたいなら、黙ってろ」
ラカン精神分析の四基本概念』pp.284-285より。

 ヘーゲルをひもといてみても、これを「疎外するヴェル」と呼ぶことが正当であることが解ります。ヘーゲルでは、最初の疎外、いいかえれば人間が隷属の道に入ってゆくにあたっての疎外の発生が扱われていると言えるでしょう。すなわち、「自由か、それとも命か!」です。もしも人が自由を選んだら、一巻の終わりです。両方とも即座に失うのです。もしも命を選んだら、彼は自由を奪い取られた命を得ることになります。
 ここには何か特別なものがあるに違いありません。この特別なものは、「致死因子」とも呼べるでしょう。 【略】 やはり少し特別なある言い回しの中には、逆に死そのものを用いた表現によって、この致死因子をうまく制御しようとするものがあります。
 たとえば、「自由か、死か!」がそれです。ここでは、前とは異なり死が選択の中に入っているので、やや異なった構造が、結果として生じています。それは、どちらを選んでも私は両方を得るということです。自由というものは、よく見れば結局、フランス革命がそのために戦われたごとき労働の自由のようなものなのですが、しかし自由はまた、空腹で死ぬ自由でもありえます。いやまさに、一九世紀の一世紀間をかけて、そちらの方へと導かれてきたのです。それゆえその間に、いくつかの原理が修正を余儀なくされました。今、みなさんが自由を選んだとします。するとそれは死ぬ自由なのです。面白いことに、さきほどの「自由か、死か!」を、人があなたに言っているような状況を考えてみますと、こうして示されている条件のもとであなたにできる唯一の自由の証明は、まさに死の方を選びとることです。なぜならこのようにすることによって、あなたは、選択の自由を持っているのが自分だということを証明することになるからです。

  • 「自由を選ぶことは、死を選ぶことだ」という言い方には、さまざまな含蓄がある。
  • ここでも、「二者択一」以外の道が問題となる。




*1:関連:【残業400時間で、会社に「ひきこもり」】(ビーさん)