当事者概念の動態化、という支援事業

非常事態で高揚した状態は、しばらくすると失われる。すると、もう報道されない、助け合うこともない。せちがらい日常が戻ってくる。そのとき、我慢しにくい抑うつや疎外感が始まる*1
「助けたい」という思いは、それ自体が考察や関係を硬直させることがある。緊急時にはうまく働いても、30年そのままというわけにはいかない。


今後、「誰が当事者枠を獲得できるか」をめぐって、深刻さのつばぜり合いが始まるかもしれない。そして「当事者」は、差別や逆差別の枠組みでもある*2
誰かを特別扱いすることは、当事者概念運用による関係布置がやるべき仕事の一部にすぎない。例えばそのことを、ガタリの諸概念とともに論じるべきだと思うが*3、ここには「支援を考える人たち」の使命感が賭けられているため、たいへん難しい。


間違ったまま硬直した当事者論が、主観や関係性を委縮させている。それは積もり積もって、マクロにも影響を与える。逆にいうと、私たちの主観や関係性をいつの間にか設計している当事者概念を考え直すことが、重大な支援事業になる。

非日常な時間は、私たちに主権の感覚を思い出させる。ルーチンの破綻が、誰かを当事者にする*4――そのことを、日常に繰り込めないか。受動的に湧いてくる分析プロセスを生き直すことで、主観性と関係性が、別の時間を生きられないか。


・・・・と、これだけ記しても、何をしたことにもならないと思う。残りの人生の課題にしたい。



*1:孤独死」という言葉は、阪神・淡路大震災から二カ月ほどたって使われ始めた。 額田勲『孤独死―被災地神戸で考える人間の復興』p.46 によると、1995年4月5日の神戸新聞の記事以後、この単語が広がりを見せている。

*2:上野千鶴子・中西正司『当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』は、この問題をまったく扱えていない。 「当事者」を名詞形で固定し、議論が展開されている。

*3:cf.山森裕毅id:impuissance「フェリックス・ガタリにおける記号論の構築(1)」(大阪大学大学院人間科学研究科『年報人間科学』第32号,2011年3月,pp.153-171 掲載)。 「アジャンスマン」「ダイアグラム」といったガタリの概念では、努力が編成されるプロセスのありかたが問題になっている。 山森氏はこの論考で、そうした議論の基礎に記号論があると整理されている(参照)。

*4:「例外状況に決定を下すのが主権者」という、カール・シュミット政治神学』の議論を参照できる。