ジャック・ラカン「疎外の演算」*3

存在を取れば、意味形成の権限を失う。 意味形成の権限をとれば、存在として無条件に肯定される権限を奪われる。――繰り返し反復するこの事情を、ラカンの「疎外の演算(operation of alienation)」という議論が描き出している。
以下、『精神分析の四基本概念』pp.282-283より。(強調は引用者)

 疎外の「ヴェル vel」*1は一つの選択によって定義されます。そしてその選択の特性は次のことに拠っています。すなわち、合併集合においては、どのように選択を試みても、結果的に「これでもなく、あちらでもない」というところに帰着せざるをえない一部分がある、ということです。したがって、選択は結局、ある部分はいずれにせよ消えてしまうのだから、残った一部分を保持する気があるかどうか、ということにかかってきます。 このことを、我われにとっての問題に当てはめてみましょう。



 主体の存在がここにあります。そしてそのうちこの部分は、意味のもとにあります。我われが存在を選んだとします。すると主体は消失し、我われから逃れ、無意味の中に落ちます。我われが意味を選んだとします。すると意味は、この無意味の部分によってくり抜かれた姿においてしか存続しえません。はっきり言うと、この無意味の部分こそが主体の実現にあたって、無意識を構成する当のものなのです

    • 《無意識》に関する議論が、《当事者》に関する議論の雛形としてこれほど有用であることの意味は。




*1:ラテン語の「・・・か・・・か」という語。