「自分の問題を、自分の言葉で語る」という努力のフレーム

この本では、「コドモである」ということが、「当事者である」ことに重ねられる。

 この本が目指してきた「コドモであり続けるためのスキル」の、一番のカギになるところは、「自分の問題を、自分の言葉で語る」ということだった。(p.180)

貴戸の取り組みの核となるフレームはここにあるし、「当事者」という言葉に固執する意義は、いったんはここに限定すべきではないかと思う。社会生活の最も基本的な営みである交渉・契約関係を維持するために、「自分の問題を、自分の言葉で語れる」ようになること。
追い詰められた者にとってこそこうした活動は必要だから、貴戸のメッセージは、つらくなっている人たちへの励ましの意味を持ち得る。ただ、「自分の問題を自分の言葉で語る」という努力のフレームは、べつに不登校の経験者であるとか、女性であるとかいうことを特権化するものではなく、社会生活を営む個人であれば誰にでも言えるし、言う必要のあることだ。 《当事者》とは、人を交渉主体にする言葉でしかない*1


不登校の経験者である」というアイデンティファイ(同定化)は、少なくとも原理的な意味においては、交渉関係で特権的な地位を保証されるためになされるわけではない*2。問題を扱う議論のフレームが出来、自分たちの苦しさを論じやすくなったり、問題が問題として社会的に認知されるのを助ける効果がある*3――ひとまずはそれだけだ。


このようなことをわざわざ言うのも、どうも貴戸の議論の中では、「不登校の経験者である」「○○の当事者である」というだけで、特権的な主張権限やナルシシズムを許容しているように感じられるからだ(彼女自身についても、他の人についても)。これは貴戸だけの問題ではなく、現在《当事者》という言葉にこだわって活動したりものを作ったりしている人たち全般に常に疑い得る姿勢だ*4
不登校経験者であることに特権性があるとしたら、それは自分のことを考えようとするときのフレームとして「不登校」を用い得るということでしかなく、そのフレーム特定も、「益があるならすればいい」ということでしかない*5。そもそも人は、さまざまな関係の結節点として、複層的な当事者性を生きている。「どのフレームに焦点を当てるか」は恣意的であり得るし、それはアジェンダ設定の政治的選択の問題だ。すべての当事者性に光が当てられるわけではない*6


コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)』では、焦点化される当事者性は「コドモ」に重ねられている。本書を含む「よりみちパン!セ」シリーズは、中学生を読者として想定しているから、当事者性が「コドモであること」に重ねられるのは、当然かもしれない。しかしその上で、貴戸の標榜する当事者論には、疑問が残る。それを少しでも整理できればと思う。





*1:いわば、社会契約論の原点に帰ること

*2:考える必要があるのは、役割理論的な位置づけ(参照)や、「アファーマティブ・アクション」について。

*3:政策対象として検討されるためには、差別化(カテゴリー化)が必要だ。

*4:6年近く前に『「ひきこもり」だった僕から』というタイトルで本を公刊させていただいた私は、「ひきこもりだった」という名詞化といい、「僕から」という私的な名乗り方といい、まさにこうした「当事者ナルシシズム」の文脈に身を置いている。このタイトルを引き受けてしまったことについて、私はこれから、時間をかけて批判的に検証するつもりでいる。

*5:当事者性は、本人が望まなくとも背負わざるを得ないものもある(差別・障害・症状など)。自由意志で忘却できる当事者性と、そうではないものの区別については、あらためて考えたい。

*6:メタな視点を取って、「自分は何も無視しない」などというのは、実際にはあり得ない。自己満足的な言葉遊びにすぎない。