《交渉》と動機付け――「教育」と「労働」を駆動するもの

ひきこもりの話は、「抽象的規範としての閉じこもる権利」*1を確保したあとは、教育と労働における《動機付け》*2および《交渉》の話だ。 ▼動機付けを極限的に(生をあきらめるほどに)失敗しているが、その失敗において、貧しい形ではあるが「閉じこもる」という状態像に向けて動機付けられている(最後の自衛手段として)。 その状態は、家族との交換関係において成り立っている――いや、多くの場合において、実は「成り立って」いない。


斎藤環は「数人の仲間ができればあとは自分で動いてゆく」というのだが、これは「動機付け」要素を「仲間関係」に限定している*3。 私自身や周囲の様子を見ていると、これはどうもあまりうまくいかない。 「仲間ができる」までは行っても、「就労する」ための動機付けにはなりにくい。 要するに「生命」がかかった状態において初めて「就労するか否か」が根源的に問われ、仲間関係はそこにおける重要な支援要素(動機付け)となる。 問題はその前段階にある、家族との交渉関係だ。 ▼賃労働は耐え難い。 生きなくてすむなら働きたくない。 「生き延びなくてはならない」という狂信的確信があるからこそ、軋轢が生じる。 ▼「働きたくないが生き延びたい」という人間は、必然的に周囲に扶養を強制している。 その願いも、もちろん交渉関係において、等価交換的に成立し得る。 《交渉》が成立しなければ、それは当事者側から家族に向けた強制行為になる。 「親の意図せざる扶養行為を無理やり継続させている」。 ▼「本当に死にたい(殺したい)のか?」という動機付けが、たぶん最終的な交渉テーマになる。【自分自身との交渉も含め。】


当事者が発言権を得る(上野千鶴子当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』)とは、当事者自身が教育的機能を周囲に発揮することを意味しないか。 医療や支援の関係を、労働における「される」ことと考えれば、当事者主権とは当事者による周囲への労働(「する」こと)と言える。 ▼当事者における、「される」「順応する」ばかりではなく、「する」「教育する」の側面が重視されるべき。――だとすれば、それは無際限な権利であっていいはずはない。 当事者による権限濫用もあり得る。 つまり「当事者主権」とは、「教育者の権限」を参照する必要を内在的に持つ。*4


過労児」に典型的なように、ひきこもりというのは、順応労役の破綻と言える。 つまり受動性の破綻において自分が動機付けられなくなった状態。 だから立ち直りとは、「順応の再興」ではなく、「能動性の再興」にあたる。


社会参加には訓練=教育を必要とする。 「教育される」モチベーションは何だろう。 ▼社会参加に向けて動機付けられないのであれば、「教育される」動機付けは生まれない。 【「自己を教育する労働」への取り組み】
「教育される」動機付けが生まれないまま、「消費主体+苦悩実存+加害者」としての時間が延々続く。 昔は共同体的な生活環境が「教育」的=「労働への急き立て」的に機能したが現在はそれがなく、個人関係は経済的交渉関係(労使・顧客)以外には影響力を無視できる。→ クレームをつける家族自身が孤立している。 ▼上記のような「当事者主権」の見地に立てば、ひきこもり当事者が周囲に漏らす鬱憤は「権力のない教師の愚痴」だ。 「どうして理解してくれないのか!」云々。 ▼繰り返すが、教師に職権濫用があるように、当事者権限にも濫用がある。 無際限に権力=権限=権利が使えるわけではない。 権利は有限なものだ。 その限界確定に、自己言及的な《批評=教育》がある。それは同時に人的資本蓄積のプロセスになっている。 ▼個人の自己管理力や規範意識も「人的資本」の一環となる。(ハイデガーにとって「存在論ができる」ことは彼の人的資本だった。→ 何をもって「人的資本」とみなすかは、時代的・政治的な判断。)
厄介なことに、《交渉》こそが、ひきこもり当事者の最も苦手な社会スキルだったりする。 逆に言えば、《交渉》の契機の中に、育むべき社会スキルと「動機付け」の萌芽がないか

    • ★《交渉=契約》の階層性。 家族レベルから、国家レベルまで。




*1:「生活費の捻出」という経済的要請とは別に要請される、《マトモな人間たるものは働かねばならない》といった一方的規範の無効化。▼経済的要請と、規範的要請は峻別すべきだ。

*2:「人間たるもの働くベシ」という一方的規範を無効化したあとにも、「生き延びる」という課題が残り続けるのであれば、「働くこと・能力を高めること」に向けて動機付けられる必要がある。 その動機付けをあきらめるとは、「死ぬ」ということ。 死に向けて動機付けられる、ということ。

*3:彼は精神科医としての自分のミッションを「仲間ができるまで」に限定している。 「就労に向けての規範注入」などは、斎藤環の臨床思想から最も遠い。――ただ彼は、臨床家としては「過激な折衷派」とのことで、臨床実践においてはいろいろ言うのだろう(このレベルで絡まれている話は不毛すぎる)。

*4:やみくもな権限主張をする当事者に、「教師になる」覚悟はあるのか。 教える側に回って影響力を行使する恐ろしさ。