これに関連し、次のご指摘が決定的です。

  • 「『無関心』がもっとも乗り越える方法に近いのでは」

以前、次のように書いたことがあります

  • 「当事者」というポジション設定。
    • 葛藤を置き去りにしてきた、という罪悪感。 わたしは葛藤を徹底して生きるだけ。 「当事者」とは「葛藤を生きます」「葛藤を我がものとして引き受けます」という諦めに満ちた指針表明というぐらい。 というか、それしかできないのだ。この葛藤は一生の問題だ。私の意志的選択に関わらず私は葛藤し続ける。その葛藤がなんらかの成果を生み出せば慶賀すべき。それだけだ。

「忘れようと思ったら忘れられる」ものなのか。
社会的な訓練を重ねれば、私を社会から追い出した私の中の何かは、消え去ってくれるのか。 あるいはまた、消してしまってよいものか。
これについて、拙著*1に記した子供時代のジョークを思い出します。

 忘れようと思っても、思い出せない。

自分がなぜ不登校になり、ひきこもり状態になったか。 忘れたいのに忘れられない、でも描こうとすると思い出せない、言葉に出来ない


自分が社会に入っていけない理由を、自分個人に還元してはいけないと思います(これは貴戸氏も指摘しています)。 しかし、同じような社会的条件にありながら、そして同じような学力を持ちながら、「元気に過ごせる人」と「そうではない人」がいるのはどうしてか。 自分の心をロボトミーできれば、自分も元気に過ごせたかもしれないのに。


「忘れられない」と執着した方がいいのでしょうか、それとも自己洗脳してでも、「無関心」に向かうべきなのでしょうか――と悩んでいるということは、忘れられていないのですが。
僕のこのブログは、自分の体質と一体化した社会的不適応の資質に、執着し続けるところから生まれている。 → 多くの人が、「あなたはもっと他の仕事ができるのに」と言ってくれます。 でも本当にそうなのか。 いや、そもそも三島由紀夫太宰治に言ったように、「ラジオ体操」や軍事訓練によって、自分の精神的体質を改善すべきなのか。
黙って不健康をやればいいとは、絶対に思わない。 今の自分のままでは絶対に嫌です。 ただ、自分の中の「何をいじくるべきで、何を死守すべきなのか」、というか「死守せざるを得ない何かなんて本当にあるのか」は、難しい。――「壊しようのないものを死守する」という表現と、「守っても必ず消えてゆくもの」の間*2



*1:p.30

*2:ここで宮台真司氏の、「天皇」と「流動性」を思い出す。