「特権」――拒否と活用

不登校は終わらない―「選択」の物語から“当事者”の語りへ』末尾より(強調は引用者)。

 これらの実践を通して彼ら*1が提示するのは、「不登校後の進路」ではなく不登校という進路」の存在である。 このようなライフコースを今後も示し続けてゆくことは、<当事者>自身による「不登校対策」として有効であろう。
 不登校は、学校からの排除ではなく、そこへの囲い込みに対する<当事者>からの批判という側面を持っていた。 学校という「特権」への包摂を、あえて拒否する。 「不登校の選択」とは、その初発の動機において、そうした意図と効果を孕んでいたはずだ。 そうだとすれば、「選択」の先にあるのは不登校からの「一抜け」としての「不登校エリート」ではなく、いつまでもつづく、終わることのない不登校でなければならないだろう。 そうした「終わらない不登校」へと回路づけられたとき、<「居場所」関係者>の「選択」の物語は、「大人になったらどうするつもり」という「常識」的な人びとの強迫に抗して、真に<当事者>のための物語となるのではないだろうか。

不登校が終わらない」のは、「意図的選択」によるものなのだろうか。
「消せない体質であって、そうするしかない」という諦めでもあるなら、「特権をあえて拒否する」などと言わないで、利用できるものは利用すればいいのに。 特権的な場所を利用しつつ、特権構造そのものを掘り崩すとか、あるいは特権的な場所を自分なりに換骨奪胎するとか。 以前も触れたが、活動家本人が社会的に排除されていては話にならない


この点については、遍歴や真情吐露が貴戸氏本人に重なる*2「Nさん」は、次のように述べている*3

 ・・・・いわば学歴の側に「居直る」Nさんだが、「学校の中から制度を変えたい」という高学歴者としての使命感や責任感は持たない。 「自分に世の中を変えてゆく責任や義務や能力があるってあんまり信じてない」。 「告発していれば良かったわたしが、『大学にいるもの』として告発される立場になった」と学歴を持つ「痛み」を表明する一方で、「いかに適当にいかに楽しくいかに向き合うか」が課題だと話すNさんは、みずからの位置性をめぐる権力構造については、戦略的な思考停止を決め込んでいた。

いっぽう『不登校、選んだわけじゃないんだぜ! (よりみちパン!セ)』の貴戸氏は*4

 わたしがいま、大学をやめて、無所属になれば、「学歴信仰」から逃れたことになるんだろうか? 学歴を捨て、エラぶった学術用語を使わなければ(っていうか使えてないけど……)、まだしもウソが少ないってことになるんだろうか?
 わたしひとりがそこから降りても、ひとにぎりの人を優遇する構造自体は変わらないのだ。 それよりも、今ここにこうしているってことが持つ意味があるんじゃないだろうか。 学校の内側から、学校を破って、大学が独占していた「知」を、少しでも学校の外に開いてゆくことが、
 ――もしかしたら、がんばれば、できるんじゃないだろうか。
 今はまだ、わからない。 わたしの得た知は、わたし自身を居心地よくすることでぎりぎりせいいっぱいだから、「責任」なんて大きいこと、ぜんぜん考えられない。 でもそんなふうに、自分を心地よくするために、たくさんの人が「知」を使っていけたらいいと思う。 そういう環境が整ってほしいと思う。
 わたしは、今いるわたしの場所から、わたしの中の「学校信仰」を見つめつづけていく。 それがどんなに逃れがたいものかを見きわめるために。 自分の得た「知」や「学歴」という特権が、どのようなくり返しの中で特定の人に独占されているかを知り、その構造に亀裂を呼び込むために。
 それがわたしの「迷い込んでしまった」位置からできるせいいっぱいのこと、わたしにこそ、できることだと思っている。

特権を、「自分のために」利用するという側面と、「活動のために」という側面と。
前者なしに後者だけを要求するのは変だし、前者だけなら、注目に値しない*5



*1:当事者たち

*2:本人かどうかは不明。

*3:p.174

*4:p.86‐7

*5:学問に没頭する人のように、ひたすら自分の趣味に没頭しているだけの人が、結果的に公共的な役に立っている、という状態もあって、これは本当に、・・・。