「学校」と「社会」――改革・補完・選択肢

あらためて、id:snusmumrik さんより。

 著者は、論文の最後に「終わらない不登校」を提案する。 不登校経験者に対し風当たりの強い社会には「出ていかない」。 そして不登校者たちによるサブ社会(?)の構築をするのだ。 それは「選択の物語」のさらなる延長、補足。 フリースクールならぬ「フリーソサエティ」。

核心的だと思います。
教育に関しては、「学校を拒否して、フリースクールに行く」と言えるのですが、労働に関しては、「社会を拒否して、フリーソサエティ(Society)に行く」とは言えない。 教育にはオルタナティヴがあるが、社会にはそれがない*1。 学校を拒否しても、別の形で社会に出てゆくことはできますが、社会を拒否してしまったら*2、出て行ける場所は「あの世」しかない。 → 学校では「辞める」で良かったのですが、社会に関しては、「辞める」ではなく、≪変える≫か、あるいは≪別の選択肢≫を自分で作り出さないと、どうしようもない*3


こうした一連の活動にとって、不登校・ひきこもりならではの「壊せない・忘れられない」メンタルな特質は、役立ち得るものなのか。 あるいは「忘れた上で」、当事者性には無関心なままに取り組むべきなのか。



*1:だからこそ、このような対比にならざるを得ないのだと思います。

*2:「選択」か「アレルギー反応」かを問わず

*3:既存のものでしっくりくれば(そういう環境に出会えれば)、「忘れられる」のでしょうが・・・。