「無縁死でいいじゃないか」

hizzz 独り死で何が悪い! 有無を言わさない縁無縁での叙情共同体強調は、ひいては靖国的な国家包摂を要請することにも繋がることになりかねない方向へ。



生前の引きこもり問題が、

    • 生活や権利の実務レベル  国家との関係では、《社会権*1
    • 「さびしい」といった価値観レベル  国家との関係では、《自由権

に分かれるように、《死ぬこと》についても、この2つが分かれます。


価値観としては、「放っておいてもらう権利」は、ものすごく重要だと思うのです*2。 しかし、無縁死の状態は、「望んでそれを手に入れた」のか、「やむなくそうなった」のか*3。 独りで死んで、弔ってもらえないということは、生前にも「SOSを出せない状態」です。

ひとりでいることは、「さみしい」とかの価値観レベルで論じられがちですが、本当の問題は、それが圧倒的に弱い立場であるということです。 無縁死という言葉に潜む「孤独なのは悪いこと」という価値観をやめて「ひとり死」と言い換えても*4、《孤独な人間は社会的に弱い立場を強いられる》ことは、放置できない。(いじめや排除に抗議することすらできない)

ありていに言って、独りきりの人間が弱者性や不便さを感じずに生きていけるためには、ものすごく充実した社会的インフラが必要です。 その拡充を言わずに、価値観レベルだけで「独り死でいいじゃないか」を言うのは、弱い立場に放置されることを黙認するだけになりがちです。

死後から考える

kmiura 無縁死こそがネオリベラルのアジェンダでもあるんだよな。
lotus3000 死と喪の共同体をどう作るか。

生前の貧困に比べて、服喪の貧困*5が重要かどうかはともかく、
「無縁死」が、シニカルに見える人たちにまで大きなインパクトを持つことは重要に思えます。



*1:国家との関係(憲法)ですべてが語れるのではなく、身近な集団との関係も考える必要があります。 「国家には頼らず、部分社会でやるべきだ」としても、実務レベルと価値観レベルを分けて考える必要がある。 ふつうは、価値観レベルで孤立したら、実務レベルも破綻します。

*2:hizzzさんのおっしゃる通り、《つながりかた》を固定されたまま繋がることを要求されるのは、非常に息苦しい状態です(参照)。

*3:この問いも生前ひきこもりと同じです

*4:「学校恐怖症/登校拒否」を「不登校」に言い換えるように

*5:エントリー時の「格差」を、「貧困」に言い換えました。