「異常者が排除される」という議論なら、マイノリティを擁護しておけばPC的正当性が確保できる。しかしいま必要なのは、苦痛緩和についての内在的な議論だ。ところがこれをやると、排除されてしまう。
つまり、名詞形のマイノリティは擁護されるが、そこで擁護されているのは、実は「擁護するという方法の動き」であり、それが再帰的に正しさを確認する作業になっている*1。
努力方針のおかしさに介入し始めると、ナルシシズムの根幹が破壊されかねない。だから危険なのは分かるが、問題の核心はそこにこそある。
私たちが本当に考え直さなければならないのは、努力の方法論だ。今は、ベタにディシプリンを生きるしかできない人たちが優等生としてポジションを確保し、必要な問題意識には気づきもしない。というより、方法論をめぐる問題意識こそがパージされる。
【追記】
「まちがっているが、都合がいいので予算がつく」がある。
そうである以上、「これは正しいのだ」だけには居直れない。行動としての魅惑は、単に正しさを口にすることではない。実際に成立した動機は、いくら軽薄でも事実性がある。魅惑に失敗した正しさは、独りよがり。
「方法のミスゆえに逸脱している」ことと、「方法を問題にしたゆえに排除される」ことは、似ているが違う。ちがうが、簡単に片方とは言えない。「方法を問題にしているが、少なくともこの瞬間に方法を間違っている」がある。一つの方法をつかめば安泰、ではない。
価値観が多様化しているというより、原理的に方法を安定させられない。そのほうがよっぽど深刻(だが、それなしには自由もない)。 オブジェクト・レベルにある価値観*2の是非ではなく、主観性の編成方針が問われている。ラカン派はそこで「シニフィアンの最小限の支柱」(参照)をもってくるが、・・・・
「病気かどうか」というもんだいと、「主観性の編成方針を固定させられない」というもんだいは、分けるべき。 病気ではないが主観性が固着することがある(これは政治説得の問題)。 「柔軟な主観性」は、最善の健康であって、病的破綻ではない(破綻は固着している)。