つながりの《作法》こそが課題
【承前】
録画したNHKスペシャル『無縁死 〜3万2千人の衝撃』を、メモを取りながら再視聴。
紹介されている事例は、堅実に生きてこられた方ばかりに見える*1(以下、敬称略)。
- 小林忠利(こばやし・ただとし、享年73) 32歳で勤務先が倒産。地元の秋田に両親を残して上京。 給食センターで働き、定年後は工場で派遣労働。「無遅刻・無欠勤」「キツイ単調作業でもニコニコ」という人柄で、亡くなる直前まで両親の供養料を払い続けたが、本人は無縁墓地に埋葬された。自宅で亡くなったのに、「氏名不詳」として官報に掲載された。
- 若山鉢子(わかやま・はちこ、現在79才) 父親を早くに亡くした。 看護師の仕事と実母の介護で精一杯、結婚できなかった。 働いてつくった貯金で、40才の時にマンションを購入、以来ずっとひとり暮らし。 3年前にガンを患い、現在は合同墓地に生前契約している。 「一人ずつのお墓はイヤ、さみしいから」
- 高野藤常(たかの・ふじつね、現在64才) 高校卒業後、三菱系の銀行に就職。 食事をする間もないほど必死に働き、社史に掲載されるなどしたが、40才で体を壊し、50代で熟年離婚。 子供は2人いたが、ふたりとも母親側についた。 今は「一人で死にたくない」と老人ホームに入居。 「家族だんらんが夢だった」
- 舘進(だて・すすむ、享年57) 30代半ばで失職。 派遣会社を転々とし、収入が安定せず、結婚しなかった。 亡くなって発見された部屋では、炊いたご飯を一食分ずつ冷蔵庫の中にパックするなど、マメな性格がうかがえた。
- 自称「木下敬二」(行旅死亡人、享年79) 30代初めに離婚・失職。 幼い娘2人を京都に残して上京。 近くの工場で働いたが、その時点で社会とのつながりを断った。 その後、故郷に残してきた娘が事故で死亡 ⇒ 木下氏は部屋から出なくなった。 隣家の保育園長の娘(宇佐美 智子、当時9才)が、「隣りのおじさんが心配で」屋根づたいに話しかけ、家族ぐるみの交流が始まった。
番組のナレーションは、最後の木下氏の事例を「無縁社会の広がりを食い止める手掛かり」というのだが、年齢から逆算すると、30代で閉じこもった木下氏が隣家の少女(9才)に呼び掛けられたのは、60年代半ばから後半になる。
当時はちょうど、国民生活審議会による報告書『コミュニティ 〜生活の場における人間性の回復』(1969年、PDF資料)が公表され、《コミュニティ》という言葉が、福祉活動のキーワードになり始めた頃にあたる*2。 60年代半ば〜後半あたりで、それまで特に意識もせずに機能していた共同体が壊れたために、「コミュニティ」という言葉で再帰的に記述する必要に迫られたということだろう*3。
今回の NHK の番組は、共同体崩壊前夜の記憶を参照し、そこに「手掛かりがある」というのだが、これではノスタルジーでしかない。 小学生が地域社会に溶け込めた60年代と違って、今は成人男性が小学生と会話しただけで通報されるのだ(参照)。
今は、次のような秩序を前提にしなければならない。
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- 人間はお互いにリスク
- 人間はお互いに、安定的な背景を失い、断片として浮遊するだけ
- 他者は、《その存在をどう情報として処理するか》でしかない
お互いが不確定になればなるほど、ベタな平等視による具体的抑圧の隠蔽と、「カテゴリーによる差別目線」*4の、双方が強まる。 押し付けられたアイデンティティは機能しないが、にもかかわらず人々は、かえって「カテゴリー」というアイデンティティ処理に固執する*5。
無理につながろうとしても、いつの間にか押し付けられる《秩序》や、自分が目指してしまっている関係のあり方を問わなければ、抑圧やトラブルを増やすだけになってしまう。 孤立した人が新しく関係を作ろうとするときには、すでに(自分や環境に)インストールされた作法を再演してしまう。 《人とつながるとは、こういうもの》という自覚されざる作法が、またしても苦痛をいや増す。
私は、そもそも「関係性の作法を検証する取り組み」を、つながりのヒントにできないかと思っている。 《つながりかたの検証》を拒否し、ベタな仲良し関係に閉じる人たちこそが、許しがたい暴力なのだ。(この暴力には、孤立していてはとても抵抗できない。)
*1:NHK は、1年の取材期間中に100例以上を調べたそうなので、この方々をクローズアップしたことにも意思が働いているはず。
*2:1970年代前半から後半にかけて、日本では地域福祉を理論的に体系化する努力が盛んになされた(岡村重夫や右田紀久恵)。 またこの時期イギリスでは、「地方自治体社会サービス法(Local Authority Social Services Act)」が制定されている(1970年)。 【こうした情報はいずれも、『新・社会福祉士養成講座〈9〉地域福祉の理論と方法―地域福祉論』p.4-5 を参照】
*4:「支援目線」も、人をカテゴリーで観る差別目線なのだ。 たったこれだけのことが、左翼の文脈では議論できない。
*5:ハーヴェイ・サックスの「ホットロッダー」(『エスノメソドロジー―社会学的思考の解体』掲載)では、本人たちが自分をカテゴライズすることを「自己執行(self-enforcement)」と呼び、「革命的カテゴリー」というのだが、そこでは《カテゴリーで名指すという繋がり方》そのものの問題は扱われない。