研究を通じてつながること

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)



珍しい昆虫を外部から観察するような目線をとらなかった本書のスタンスに、まずは深く賛同したい。 たとえば次のような指摘には、内側からの制作者の視点がある(以下、強調はすべて引用者による)

  • 当事者研究は、「自分のことを自分はよく知らない」という前提から始まる。 (p.127)
  • 当事者研究には一定の作法が必要になるだろう。 (1)抑圧されずに一次データを語れる場の制度的確保 (2)特定のメンバーが占有できない存在として構成的体制*1を位置づける工夫 の二つである。 (pp.130-1)
  • 当事者研究では、多数派の世界では「ないこと」になっている現象に対して、新しい言葉や概念を作ることをとおして、仲間と世界を共有する。 (p.156)
  • 当事者研究によって打ち立てられた構成的体制は、個人の日常実践をとおして検証される。 (略) 当事者研究における日常生活は、正解がすでにあって、間違えたり失敗したりすると裁かれる「試験の場」ではなく、仮説に従って動いてみて結果を解釈する「実験の場」になるのだ。 (p.159)
  • 回復とはある地点に到達することではなく、むしろ変化し続ける過程そのもの。 (p.163)
  • 世界も自分も、常に変化し得る構成的な存在だということを受け入れた時、どこまでが「変えられない部分」で、どこからが「変えられる部分」なのかという問いが、重くのしかかってくる。 (p.164)



また以下のような指摘は、社会的ひきこもりにも大いに参照できる:

 コミュニティ内で生じる同化的・排除的圧力の息苦しさによって、やがてコミュニティ自体が包み込む力を失い、細かい内部分裂の結果、ふたたび「誰ともつながらない個」になってしまうという状況が生じる傾向がある。これを「コミュニティを卒業し、個人として自立したのだ」と言えば聞こえがいいが、それは同時に、ふたたび多数派による権力に絡みとられ、いいように操作されやすい「分断された個」を生むということでもある。 (p.91)

 構成的体制が失効して手探りの探索や自省に焦りながら追われる意識状態を「あたふたモード」と呼ぶことにする。 (略)
 歯を磨きながら別のことを考える例でいえば、歯を磨くという行為は「無意識の回路(自動)」に、思考は「意識的な回路(手動)」に割り振って、互いにゆるく影響を与えながら同時に進行している状態である。このようなスムーズな意識状態を、「すいすいモード」と呼ぼう。 (略)
 外界から断絶して密室に引きこもり続けていると、徐々に身体や世界のイメージが曖昧なものになり、情報不足によって思考も堂々巡りしやすくなるという面もある。そこでこのような意識状態を「ぐるぐるモード」と呼ぶことにする。 (pp.116-7)

 この「構成的体制と日常実践の相互循環」の重要性を前提とした時、病気や障害を「治すべきもの」として捉える「治療の論理」でもなく、また「変わるべきは病気や障害を持った私たちよりも、それを受け入れる土壌を持たない社会のほうである」として社会の変革のために闘おうとする「運動の論理」でもない、べてるの家での実践のような「研究の論理」を、当事者コミュニティのなかに持ち込むことの意義が見えてくる。 (pp.124-5)



著者らは、いくつかの当事者研究と自分たちのやり方を比較しながら、「今後このようなかたちで当事者研究というものを定式化してはどうだろう」という提案を行なっているのだが(p.103)、その提案の原理的骨格については、これからの課題と言える。
というのも、今後要請される《つながりの作法》が「研究の論理」だとすれば、その研究それ自体の方法論においてこそ、つながりの作法は立場を分かつだろうからだ(ありていに言うと、トラブルはそこで起こっている)。


「研究の論理」に従ってつながりを作ろうとしたにもかかわらず、どうしてもうまくいかないとしたら、どうだろう。私たちは、どういう「研究の論理」を生きてしまっていたのか*2――今の私が直面しているのは、そういう問題だ*3


本書の区分(pp.78-95)でいうと、

    • 「正常さに過剰適応する時期」(第一世代)
    • 「仲間と出会い連帯する時期」(第二世代)
    • 「多様性を認めながら連帯する時期」(第三世代)

があるとして、
その第三世代は、必然的に主権や合意形成をめぐる政治哲学的なモチーフに直面せざるを得ない。 「多様性を認めながら連帯する」というスローガンは昔からあるが、問題はそれをどう関係性に実装するか。


現状では、各人がなんとなく「当事者研究」を名乗っている。 結論以前に、《自覚されない研究スタンス》がつながりの作法を決し、「なぜうまく行かなかったのか」も、言説化されない。 誰かとつながろうとするたびに私たちを悩ませる問題が何なのか*4、解決するにはどういう制度を導入すれば良いのかについては、いまだ黎明期の議論しかない*5


本書の「あとがきにかえて」には、
自閉症と診断される人が急増している実態について、次のような指摘がある。

 現代社会自体が、マイノリティの日常のように不確実な世界で長期的な見通しのない状況に陥っているとも言えるのではないだろうか。そして誰もが、変化し続けることや空気を読み続けることに追われてせわしなく立ち回る「あたふたモード」と、排他的・密室的なカテゴリーに引きこもって被害的な妄想を膨らます「ぐるぐるモード」の両極端の間を振れているとみなすことができるだろう。だとするならば、本書で詳しく述べてきた「つながりの作法」は、決してマイノリティだけに有効なものではなく、現代を生きる私たち全員にとって一つの目指すべき方向性を示している。 (p.219)

綾屋氏と熊谷氏は、相対的に安定したカテゴリー*6の “当事者” を名乗りつつ、このカテゴリー自体が静態的ではあり得ないことを踏まえておられる。 何らかのレッテルが排他的に機能する「当事者研究」については、これから改めて問題点を指摘するべきだろう*7


自覚しないまま上手くやれる人には見えないことが、つまづいた人には見えることがある。その「うまくいかなさ」に踏みとどまって内側から紡ぎ出された議論は、障害を持たない人にも恩恵をもたらす――ここで当事者研究は、「健常」とされる人たちをも問い直す公共的な実験場として、生きられざるを得ない。
《つながりの作法》において、当事者性を免除される人は一人もいない*8



*1:《探索活動によって立ちあがる「自分」のイメージは当然、コミュニティ内で共有されるさまざまな基本設定を前提としている。こうした「所属するコミュニティの言語、社会制度、信念や価値観」という基本設定を、文化人類学者の大村敬一は、「構成的体制」と呼んでおり、本書もそれにならうことにする》 (『つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)』p.108)

*2:本書 p.114 には、下條信輔「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書)』から、「無意識が意識にのぼる条件」がまとめられている: 「(1)自分の行動に何か邪魔が入った時、(2)自分の行動を自省するとき、(3)他者から自分を客観的に見ることを強制された時」

*3:昨年春ごろから、当ブログでも《つながりの作法》をキーワードにしていたが(参照)、焦点は研究の作法それ自体にある。

*4:いくら排除してもそれはくり返し回帰してくる

*5:これは本書への不満であると同時に、要するに私自身がこれから取り組まねばならないことだ。

*6:アスペルガー症候群」と「脳性まひ」

*7:調査倫理上のトラブルは、その多くがカテゴリーによる排他性(見下し)、その裏面としての全面受容などと結びついている。ありていに言えば、政治的主体として対等ではないのだ。

*8:「正常なメタ目線」だけで専門性を主張する人たちを問い直し(挑発的に言えば“診断”し)、彼らの内在的な当事者性を自覚させる必要がある。 ▼ここでいう「当事者性」は、逸脱のもんだいではなく、「顛末に責任を負う」ということ。彼らの判断は、主観性や集団の制作過程に重大な影響をもつ。