『NAM生成』(太田出版) 柄谷行人×村上龍 p.69-70

柄谷氏の発言より。(強調は引用者)

不登校というのは、一種のボイコットだと思うんですよ。僕が二年ぐらい前に突然考えたのは、労働者の運動を生産点を中心に考えるから間違っているということです。労働者が生産点でストライキをすることは難しいのです。労働運動が弱体化してくると、消費者運動市民運動が盛んになりました。しかし、「消費者」や「市民」などという抽象物は存在しない。彼らは、広い意味で労働者なのです。消費者とは、労働者が、自分たちがつくったものを買う場所に立つときに出てくる姿です。労働者が買わなければ、剰余価値は実現されない。生産点での闘争は困難だけれども、この買う場所での闘争は容易です。ボイコット、不買運動には、資本は勝てない。だから、消費者運動とはかたちを変えた労働者の運動であり、それは、ストライキのかわりに、ボイコットを武器とすることによって、資本に対抗できる。ボイコットには、買わないというだけでなく、売らないというものもある。つまり、労働力を売らない(賃労働をしない)で、非資本制企業で働くということもボイコットです。
 その意味で、不登校というのはボイコットですね全共闘ストライキだった。それから、「校内暴力」はサボタージュですね。いまは大学生の間に、学生運動がないけど、それは社会的矛盾に面する段階が早期化して、中学や小学校の段階に下降しているからでね。そこに、ボイコットが大量に発生している。実際はともかくとして、君がそこに、新たな闘争のカギを見いだそうとしたことは、重要なヒントだと思う。

自覚的な合理性に基づいた「選択」ではないはずだが・・・。
僕は本の余白に、「症候的ボイコット」と書いている。 【cf.「症候的徴兵拒否」】
症候的自発」(Symptomatic Voluntary)
このあたりはもっと彫琢が必要だ。