外傷的事態へのリアクション

  • 震災も人質殺害もトラウマ的。 最初から≪思考へと誘うが、思考することは困難≫な事態。
    • 香田証生さんの「すいませんでした」という肉声の響きが耳に残っていて、
    • 剥き出しの現実を提示することは、かえって思考を凍結させる可能性がある(ショックが大きすぎて)。
        • いや、しかし本当の衝撃的情報(映像など)には、安直な思考をやめさせるだけの力もある(→ chikiさんの指摘)。 この辺の事情は本当に難しい。 恣意的に導けるものではないのでは。
    • こちらでも感じたが、≪作品≫という存在が、思考を促す面はあると思う。
        • 映画 『SHOAH』 と、それに関連する 「表象不可能」 「現実的なもののフィクション」 というランズマン監督のコメントを思い出す。( → 参照
        • 「言及や行動は、つねに冒涜であり得る」という危惧は捨てたくない。


  • 事件や災害の発生直後には、個人エピソードはどうでもいい。 衝撃の生々しさに耐えながら、ひたすら客観的思考と具体行動が要る。 しかし、
    • 事態が衝撃的であればあるほど、無視や、脊髄反射的な罵倒や、ロマンチックなエピソードが ―― 現実逃避的に ―― 必要になるのか。
    • 時間がたって、「客観的に考察する必要」すら忘却されそうなとき、感情移入できる個人イメージが重要ではないか。 (このエントリーの時には、そういうつもりでした。)