過去のコメント欄より

今回の chiki さんのエントリーでは、≪コミュニケーション≫ということが1つの焦点になっていると思うのですが、8月8日のうちのコメント欄に、chiki さんからきわめて印象的な「コミュニケーション論」をいただいたことを思い出しました。 残念ながらコメント欄は閉じてしまったので、以下に全文を引用してみます。*1
太字・赤字強調は引用者(私)です。

id:seijotcp 『論点とずれているかもしれませんが、コメントさせてください。 chikiは「ひきこもり」と「社会」、「家族」のズレの問題をコミュニケーションの位相から次のように考えていました。 まず、chikiは「コミュニケーション自体」というのは存在しないでしょうし、「コミュニケーションが成立した」と言いえる視点もまた存在しないと思っています。 後者は、「メタレベルはない」という定義とほぼ同義だと思うので、これはもしかしたら、精神分析の領域でなされているような「コミュニケーションは<ない>」という話と関わるのかもしれません。 それは、<他者>の問題が解消される地点というのは決して見出せない、ということだと思うのですが、ただ、このことを chiki は逆説的に「コミュニケーション<しかない>」という意味で捉えたいと思っています。 常に解消されない<他者>がいたとして、そのことがコミュニケーションは<ない>という定義を支えているとしても、(否定神学的なトートロジーを避けて)その解消されない<他者>の具体的な声を聴くことの出来る方法は「コミュニケーション<しかない>」という程度の意味です(よって、大きな枠組みで考えることが無意味だ、という意味ではありません)。 このような幼稚な思考は一笑に伏される程度かもしれませんが、chiki のある種の信念のようなものだと思ってください。
ひきこもりに限らず、例えば自殺志願者などの方の中には(包括的な議論は出来ないでしょうからもちろん全ての方が、などと言うつもりはありません)、他者による、そして自己による「承認」を得ることで随分救われる方もいるのではないかと思います(おそらく8/10のコメント欄でなさっている議論とも関わりがあるかもしれませんね)。 「強度」と置き換えてもいいかもしれないのですが、分かりやすいので「承認」という言葉を使わせてください。 以前のコメントの繰り返しになってしまうかもしれませんが、ひきこもりを巡って大きな枠組みのシステム(国やグローバル社会など、または天皇制や監視システムなど)を問題にすると、(政策、立法レベルとはまた別に)「承認」を与えるシステムをいかに構築するのか、という話になることがあります。 雑駁なところでは最近でも「公があって個があるのだー」と主張している方もいるようですが(そのような議論も有意義なことだと思うのですが)、しかしそのような議論の中では「この点をこうすればひきこもりの問題は一気に解消」みたいな「一発逆転」的な思考が見え隠れしている節があるように思います。 もちろん、「ひきこもり」の議論において「一発逆転」の地平などは絶対に出てこない、でてきても「昔は良かった」程度のものでしょう(または、それこそ「一辺に洗脳だー」とか:汗)。それに、現代はそのような、<承認>を一度に多くの人数に供給する装置というのは見出しにくい。 となると、具体的な誰かに(自分を含め、人でなくても)「承認」を得る必要というのがでてくると思うのですが、人間関係なり自分の趣味なりにそのような「承認」のポイントを見出せない状態というのが「ひきこもり」には大きく関わってくるのではないかと思います。』(2004/08/11 11:35)


id:seijotcp 『以前上山さんが「「姿勢」そのものへの「共感とリスペクト」が、これほど深い救いをもたらしてくれるとは」とおっしゃっていましたが、「ひきこもり」に限らず、たとえ根拠が無くても、そしてどれほどナイーブと言われようと誰かに 「ここにいていいよ」 「君を赦す」黒沢清アカルイミライ』の台詞です)等の言葉をかけてもらってもいい、むしろ言われなくてはならない時があると思います。 そのような「承認」は、恋愛(あなたが・好きです等)や宗教のようなもの(あなたの・幸福を祈ります等)で補うことも可能だとは思いますが(「ギャルゲー」も?)、「ひきこもり当事者が宗教信仰に向かうことはほとんどない」のが事実であれば、アパシーの程度問題がとても大きな問題に感じます。 そこで、おそらくそのアパシーと向かい合い、まさに「自己を動機づける訓練」が必要になるという議論になったのだと思います。 「訓練」と言う語は、ある種の制度的なものを連想してしまいがちですが、その訓練の場が「コミュニケーション」になるのではないかと chiki は思っています(人によってはネットやblog、または映画や文学などなど)。 か弱い言葉ですが、具体的に承認を与えていくしかない、「コミュニケーション<しかない>」と思うのです(そのことを上山さんは日頃blogで実践されていらっしゃいますし、他にも色々な方法を―カウンセリングを含めて―行っている方がいると思います)。
このエントリーでは、上山さんが 「コミュニケーションも当事者を動機付けられないのではないか」 とおっしゃりました。 これは大いに考えられることです。 コミュニケーションをとる気力が湧かない状態を経験したことのない人も稀だと思うので、想像しやすいところだと思いますし、ひきこもりの方が長い間家族と口をきかない、というケースも聞いたことがあります(子供が親に反抗するとき、口を閉ざしますが、あれは「象徴界に捉われないぞ!」という意思表示なのでしょうか。 だとすればこの場合の沈黙は象徴界の拒絶? chiki は「コミュニケーション」を象徴界だけのものでなく、想像界現実界*2との困難な対話の実践とも捉えているようですが、「間違い」なんでしょうか…)。 そのような場合には、無知な chiki が知らない実践的なアプローチがあるようにも思うのですが、以前見たテレビの特集では長い時間をかけ、なんども足を運ぶことで少しずつコミュニケーションをはかろうとしていました。 気の遠くなりそうなことですが、多分、それ以外に道はないのだろうと思います。 この辺りはご専門の上山さんにご意見を伺いたいところです。
大きな枠気味で、つまりひきこもり状態から「正常」な状態へと引き戻すことについて議論すると、方法と共に「正常な状態」の倫理的正当性が問題になる。 そして「受け入れることの出来ないこの世」が問題になるとき、同時に「この世を受け入れられない私」が問題になります。 chiki はこの「私」の具体的な声に「正常」な社会(同時に「受け入れることの出来ないこの世」)が耳を傾けていくこともコミュニケーションだと思っています。 そして、「魅惑」の可能性が潜んでいるのも同様ではないでしょうか。 「コミュニケーション」という語を定義しないままに便宜的に使いすぎていて誰かに怒られそうですが(汗)。 長々とまとまらない意見を述べてしまいました。』(2004/08/11 11:36)


id:ueyamakzk 『 chiki さん、真摯な書き込み、本当にありがとうございます。 またぜひ後ほども(本文で)触れますが、くり返し拝読しながら、「唯一の場としてのコミュニケーション」において、≪安易な受容と安易な排除は裏表≫ということを思いました。 「承認(評価)」をどう与え合うか、というのはきわめて重要な議題なのだと思います。 【あれ? これってひょっとして「批評」の課題そのもの?…】
★ 「子供が親に口を閉ざす」のは、いわば「≪穴≫のない耳に向けては語らない」というふうに理解しているのですが…。 RSI をめぐる議論は、東浩紀氏と斎藤環氏のあいだでも紛糾しているようで、少し落ち着いて考えてみたいです。
★ 「ふれあい」とかいうのとは別の、峻烈にして魅惑的なコミュニケーションの場が必要ということでしょうか…。』(2004/08/11 12:52)


id:seijotcp 『わけのわからない長文に、丁寧なレスを本当にありがとうございます。 「安易な受容と安易な排除は裏表」…そう思います。 凡庸な言い方ですが、一般的に「安易」でない「困難」なコミュニケーションを排除してしまうことがしばしばあるように思います。 それは必要悪であるとは思いますが、それに抗する<唯一のコミュニケーション(=訓練)の場>として、批評や文学などを捉えることも可能ではないかと思います(chiki の親しい友人*3から影響を受けた発想であることを明記させてください)。 2点目は、残念ながら無知のためよくわからないので、これから上山さんのエントリーなどによって勉強させていただくつもりです。 3点目は、「ふれあい」という言葉に上山さんが(または一般的に)どのような意味を込められているのか分からないので的外れなレスになるかもしれませんが、「魅惑」を持つものとして、文学や宗教がかつて果たした(今もなおその意義はあると思いますが)機能や、具体的に「親友の励ましの言葉」や「頑張れソング」などなど、色んな形が考えうると思います。 それらをひとつひとつ検討していくのも有意義ではないでしょうか。』(2004/08/12 01:07)






*1:公開されたコメント欄にいただいた書き込みなので、許可なく再掲してしまいましたが、もし問題があればすぐに削除しますので言ってください>chiki さん。 【追記 : 快諾いただきました。 うれしいお返事の上に、体調の心配までしていただいて、申し訳ないです…。】

*2:現実界(le Réel)・ 象徴界(le Symbolique)・ 想像界(l'Imaginaire) ―― 精神分析ジャック・ラカンの提唱する概念。 その概念の正当性をめぐって活発な論争がある。 その三つ巴を表現するのに、それぞれの頭文字をとって「RSI」と書かれることもある。

*3:この「友人」は、id:shfboo さんだとのことです。 【chiki さんのご希望による追記】