思考と行動に対する「動機づけ」の問題

  • 「この問題について考えてほしい」という願望表明の際、「応答責任」という言葉を聞くことがあるが、「ショックを受けた」とか、「自分にも関係あるかも」と思えなければ、わざわざ苦しんで考えたりはしないのではないか。
    • 当事者にとっては「個人的なことは政治的なこと」(personal is political)だとしても、ほとんどの人にとってはひきこもりも*1、人質も、被災も、≪他人事≫。 → 「我が身に関係ある」――「考えずにいることはかえって危険である」など――という要因をどう説得づけるか。 さもなくば、思考そのものの快楽に訴えるか。 「考えている人の真摯さにショックを受け、自分も考えるようになる(伝染する)」という要因もたしかにある。
    • ここにも、「知らず知らずいつの間にかそうなってしまった(考えていた・行動していた)」という自発的要因と、「考えなければならないから考えろ」という強制的要因とのせめぎ合いを感じる。


  • ひきこもり・人質・震災について真剣に考えようとすることは、自分の精神を傷つけるかもしれないし、発言や行動を起こせば、他人の利害関係に巻き込まれることになる。 → 「リスクに見合うだけの何か」が見えなければ、あるいはよっぽど切迫した形でお尻に火が付かなければ、思考放棄は当然ともいえる(私自身も含め)。
    • 「他人に優しくしたい」というナルシスティックな動機でも、金銭・現物支給に関しては「google:やらない善よりやる偽善」。 「わかりやすい善」に向けては動機づけやすい。
    • しかし、精神的・政治的要因が絡むと、「何が良い行動なのか」が本当に分からなくなる。 「これならば何もしないほうがよかった」ということすらある? 「議論し、行動してもどうにもならない」という無力感もある。
    • 本当に難しいのは、益や善のビジョンを具体的に提示することではないか。 利己的な動機にもとづいていても、結果的に他者に益することはある(一般の経済活動のように)。














*1:「ひきこもり」を「人質・被災」と列記するのは失礼と思われるかもしれませんが、私にとって「ひきこもり」は、自分と他者の命に関わる思考テーマです。