「思考する義務と責任を問われるいわれはまったくない」

  • 「自分は引きこもっていない」と思い込んでいる人のほうが閉鎖的な場合がある。 「自分はちゃんとやっている」というアリバイがあると思っている人たちの、頑迷さ。 彼らにとっては、印象的な事件・災害・社会問題は、「気晴らしのネタ」でしかないし、そういう形でしか動機づけられない。 単に「自分の生活で手一杯」ということもあると思う(→参照)。
    • 「自分はうまく生きられていない」と当惑している人たちの、繊細な開放性*1。 しかし、粗暴な自己肯定のほうが強く見えることがある、そのことへの苛立ち。
    • ある問題を「わざわざ考えなくても生きていける」人たちと、「考えずには生きていけない」人たちへの分離。 それは単なる感性の問題? それとも経済的?


  • 「不愉快なものを、自分には無関係なまま≪処理≫したい」 → 安易な切り捨て・レッテル貼り。 ≪迷惑≫という、ますます強くなるように見える脊髄反射的モチーフ。 長期的視野に立った問題意識の困難さ。
    • 「迷惑さえかけなければ何をしてもよい」という言い分があるが、まったく転倒している。 私ならこう言う : 「生きていれば必ず人に迷惑をかける。 問題は、どういう迷惑をかけるかだ」。 どんな仕方で迷惑をかけてもいいというわけではないが、くだらない仕方で迷惑がる人間は私にとって迷惑だ。
    • 「対話」とは、一定の仕方で「迷惑をかける」ことではないのか。


  • 「1つの問題に、≪自分自身を関係付ける≫」という要因への極端な忌避。 「考えたくない」という宣言のような発言たち(他人事ではない)。 → 「考える必要」は本当にあるのか。
    • ≪この問題に取り組まなければならない≫という要請に対して、「降りる自由」はどこまで表明できるか。 法律や職務レベルの義務ではないなら、まったく考えないことも可能ではないか。 なぜ、我が身を削って苦しんでまで考えなければならないのか。
    • その選択によって、誰が損害を受け、誰が恩恵をこうむるのか。 【短期的・長期的】






*1:ただしあまりに切迫している人にはそんな余裕はない。