事態の構造的描写

私のしている「課題脱落的」という引きこもり論は、「深刻度競争=不幸自慢」と同じではないのか、というご批判を受けた(ような気がする)ので、少しだけ。
「課題脱落的」は、引きこもりに起きている事態について、なるだけ多くの人と本質的な議論を共有できるように、問題を抽象的に析出したものです。脱落は「主観的=ココロの問題」でもあるし、「客観的=社会の問題」でもある。
ひきこもりの実状を知ってもらう努力は必要ですが、しかし現実的には、それは難しい。とすれば、「実状を知ってもらえずとも、あるいは≪共感≫してもらえずとも、いろんな人と議論を共有できる概念ツール」が必要になる。それを考えてみたのです。
「課題脱落的」には、ひきこもりやニートの問題の核心部分にある(と私が思っている)≪自発性/強制≫というテーマが深く関わります。議論のテーブルを明らかにしたかった、という感じでしょうか。
状態像が「重い/軽い」は関係ないつもりです。深刻であればより徹底的に課題脱落的でしょうし、軽ければ、けっこういろんなことに自発的に参画していることになる。そこにはひとまず、「脱落することがいいことか悪いことか」といった価値判断もありません。