メールより

今日のエントリに関連し、三脇康生さんと交わしたメール(私からの返信)の一部を、許可を得てここに転載してみます。三脇さんからは、「プロジェクトに参加したい」とのうれしいお返事を頂きました。
上に書いたように、「人物と発言」は分けるべきだし、今後の三脇さんとの人間関係がどうなるかもわかりません。現時点で「プロジェクトを共有しましょう」というだけで――それ以外の帰属・共有関係はまったくないし、必要ないと思います――、そうであるがゆえの熱心な論争も今後あり得ると思います。そういう前提の上での掲載です。
さらに言えば、三脇さんと対立関係にあるようなかたともこのプロジェクトを共有できれば、それこそうれしいのですが・・・・。


くどいようですが、私は、大学のサークルにさえ属せなかった、「社会的閉所恐怖症」な人間です。対人恐怖を形作る「中間集団」*1的人間関係への不安が人一倍強いのですが、そういう私のような人間にとっても、この≪課題帰属≫、≪プロジェクト優先≫という方法論は、有効であるように思うのですが、いかがでしょうか。



以下、メールからの転載

> 闘い方は左翼の集団主義(下には下がある主義、そして集団維持のため
> だけに共通の敵を見つける主義)にならないように気をつける。これが、もし
> かしたら 今までのどの制度、どの組織にも入れない引きこもった人に課せら
> れたプロジェクトかも知れません。そしてそのプロジェクトは引きこもりの人だけ
> でなく実は、あらゆる制度内、組織内のプロジェクトでもあるべきです。


いみじくも「課せられたプロジェクト」とおっしゃっているわけですが、私は
実は「ひきこもり」を、「課題脱落的」と表現していたのでした(先日の
講義中にも申しましたが)。
そういう引きこもりであるからこそ、「集団に馴染めない」人間として、集団
主義とは別の運動形態を模索し、生きられるのではないか――そういう
積極的なご指摘と受け止めました。


弱者問題に取り組みながら、集団主義的、あるいは旧来左翼的でない
あり方を模索する必要――その課題を私たちは共有している、と言える
のではないでしょうか。
先日の三脇さんの「教授や大学院生は、制度ではなく、プロジェクトに
帰属すべきだ」というお言葉にもありましたが――意見の一致を見て、
本当にうれしいご指摘でした――、「属性による党派、制度による党派
ではなく、≪プロジェクトへの複数帰属≫というスタイルを採るべきだ」とい
うことだと思うのですが、いかがでしょうか。


私としては、ひきこもりに反感を持っていたり、私を嫌っている人にも参加
していただけるプロジェクトにする必要があると思うのです。関わっている人
間が自分の課題設定においてそれぞれなりの利益を得れればいい(全体
の利益を統合する必要はない)。 直接的な「ひきこもり支援」ではなく、
≪脱落しても再復帰できる社会を≫というグランド・テーマを、いろんな人
と共有することを目指す形を採りたいわけです【それが今回、杉田俊介さん
と共有しているキャンペーン(というかプロジェクト)の骨子です】。
脱落にも復帰にも様々なありようと方法、あるいは複層的な「課題の重なり」
があるわけで・・・・。




> 例えば、僕は企業内メンタルヘルスシステムの研究を厚生労働省の研究班
> でやっている振りをしているんですが 要は、リストラの局面(企業の内部だけ
> の問題では済まない局面)でのメンタルヘルスが考慮されないと、いくらシステ
> ム作っても、幹部の言い訳システムにしかならず、ほとんど無効なわけです。


本当に良くわかります。
おっしゃる通りだと思います。
私のこれまでの言い方ですと、「心理カウンセラーと雇用・労働問題の
専門家は、連携する必要がある」という話に当たると思います。「仕事
を探しているのに見つからない」というのは、本当に精神衛生上よくない
し、その問題は、「ココロの話」をしているだけではどうにもならないので・・・。




> 組織、制度の内か外かの単純な二律背反、これが不毛な絶望論につなが
> る訳です。 内にも見えない外がある。この外は開放の場所ではないですが、
> この外を忘れないようにしなければならない。 そして外だと思っていたら、それ
> が内になってくる場合もある。 この際、内はベタ、外はメタでもよいです。


内と外のお話は本当に示唆的です。
「制度的に設定された課題の外側に居る」ところ(つまり純粋メタレベル)
で「絶望」する(ベタレベルの取り組みは放棄されている、というより「放棄
するべきだ」とされる)。 しかし、最も外側に脱落していると思われた引き
こもりの内面や境遇論理そのものに、同時代の最も核心的な問題が現れ
ていたりする。 → 私のこれまでの思索は、その核心的問題構制の剔抉を
目指していたかもしれません(自覚していたわけではないのですが、三脇さん
のお話を伺っていてそう思いました)。 「≪脱落≫こそが、状況の中心課題
である」という逆説でしょうか。




> いずれにしろ、内外、ベタメタの間の政治が無いと、静態的な世界観に
> なって、内外の真ん中で絶望するしかなくなるのですね。


これも本当に良くわかります。課題というのは生成的プロセスの渦中に
あるわけで(個人も課題も状況内在的)、静態的にメタの視点に立って
いる(と思っている)人は、ものすごく硬直的に生きている・・・。生きられる
課題にアクチュアリティがない。
もちろん、ベタだけの人も同断ですが、ベタレベルには過剰なほどの流動
性があるので、内面を「絶望」という形で静態化させるのは、防衛反応と
いう面もある気がします。


社会という場における課題設定のあり方こそが「政治的」と呼ばれるべき
だとすると、内と外(ベタとメタ)の緊張関係の中で、あくまで状況内在的
に、暫定的な課題設定とそれへの取り組み、その解体と再生を繰り返す
ことこそが、≪生きる≫ということなのでは・・・・。


まだ読み始めたところなのですが、「制度論的精神医療」の説明、あるい
は「動的編成(agencement)」の説明から私が感じ取ったのは、そうした
モチーフでした。個人とは、社会というフィールドにおける「繰り返される
動態的課題構成活動」であり、こうした議論は、そのまま≪個人的
活動の詩学≫ではないか、と・・・・。






*1:人間関係には、(1)家族や恋人などの「最も近しい存在」、(2)ご近所さんやクラスメート・同僚などの「中間集団」、(3)通りすがりなどの「無関係な存在」、の3段階があり、≪対人恐怖≫は特に(2)を対象にする、とされる。