困難

  • 「分かった気にさせる」情報(番組やブログ)でなく、「知れば知るほどわからなくなった」姿勢の情報が要る。 「何かに取り組む」ことにはそういう要因があるはず。 しかし、
    • 「一緒に考える」という困難な姿勢を要求する情報は敬遠される。 みんな基本的に、自意識の刹那的な快楽しか求めていない。 学究型よりは、「わかった気にさせる商人」のほうが多数者に支持される。 → (chiki 氏も触れていたが、)「困難な要求をする」だけではなく、「お気軽に取り組める」形を模索することも、政治的・現実的には必要。
        • たとえば「ひきこもり支援」は、まともに取り組もうとすると(現状では)≪人生を賭けた命懸けの事業≫になってしまうが、そういう要因だけでは支援事業はまったく前に進まない。 あまり関心のない人でさえ取り組める「敷居の低さ」が必要。 だが、そのための絵(ビジョン・設計図)がなかなか描けない。
        • 「困難な対話」とのことだが、「一対一の対話」は、たしかに敷居が低いように見えて、じつはそうではないのかも知れない。 多くの人が「対話を恐れている」気がする。 よくわからない状態に投げ込まれ、巻き込まれ、「本性をバラされる」のを嫌がっている? いや、単に「めんどくさい」?
        • 「それでも関与してみたい」と思ってもらう難しさ。


  • 市場原理(視聴率主義)や政治的思惑が、本当に重要な情報や問題提起を埋没させる。 しかしかといって、市場原理を無視しては生活経営が成り立たないし、利害関係や「多数者に支持される必要がある」という政治的要因がなくなることもあり得ない。
    • 当事者主権 (岩波新書 新赤版 (860))』言うところの、≪事業体≫(生活自立)と≪運動体≫(社会的合意形成)の両輪を思い出す。
    • 意思決定権を持ったごく少数者のみをターゲットに活動(説得)する形も検討したいが…。