時間を論じる議論が、時間「について」論じるばかりで、時間「を」生きる技法を問い直せていない。

必要なのは技法であって、規範ではない。

不当なメタ(現象の外部)を前提にすると、技法が硬直する。

論じる自分や集団は、時間を生きることそのもの。

【4月4日の追記】

  • 閉じこもることしか出来ない――これには、技法の失敗という要因がある。規範的に論じるだけでは、ここを忘れる。
  • 各種の理論は、それぞれなりの言説事業を、一つの技法として生きる。言説事業としての試行錯誤は、技法の試行錯誤。
  • 技法を固定したままの試行錯誤は、フレームの固着に気付いていない。言説事業としての路線のあり方を問い直せないようでは困る(→問題に対応できない、端的に破綻する)*1。しかし「問い直し」ばかりでは、そもそも我慢強い勤勉があり得なくなる。*2
  • 言語/記号/情報は、技法の試行錯誤。「理論」もその一部。




*1:主体化の困難

*2:逆に既存の勤勉さは、「直面を避けたごまかし」「それゆえの不当な監禁」に見えている。