恣意的・断片的引用 (太字・赤字強調はすべて引用者)
chiki さんのエントリーより
- どれにも共通していえるのは、そのニュースの語り方が、なんとなく本質に接近したつもり、語った気になれる程度の満足感を与えるものでしかない(結局、根幹的な部分については何にも語らない)
- 外部との政治的な部分より、内面的な問題で終わらせてしまうだけでは、(相変わらずではありますが)まずいと思いました。 また、 「ご冥福を祈ります」という慣習的な言葉で済ませる番組やBLOGも、それだけでは基本的には何も発言していないと思います。
- 忘却のための、想像停止のための、思考停止のための…つまり「これでこの問題はおしまい」と宣言するための言葉
- 「安心してテレビを見させろ、<善意の(気分を味わえる)傍観者>でいさせろ」
- 別の次元のものをそこまで露骨に無視するのはまずい
- 単にケチ臭いだけの情念をさらけだしておきながら威張らないで欲しい
- 言説空間が閉鎖的、鎖国的な状態になり、それゆえ、きわめて日本的な世論に向けての独白になりやすい。
- いつまでも「外」だから、「彼を無視する論調は、自分の首をも絞める」ということに気づかないでバッシングしてしまう(ほとんどの人が、「役立たず」として切り捨てられるでしょうから)。
- 人々がそのような混沌に途方もなく磨耗しきった時にようやく理性の声、対話の可能性に光があてられるかもしれない
- もうちょっとしんどい(無論、誰でもイージーにコミットできる良策を考えていくことにも意義はあると思いますが)、こつこつとした、それでいて可能なるアクションを模索する
- 面と向かって、時にはBLOGなどを通じて、類型化に逆らうような一対一のコミュニケーションをすることの方が絶対に実を結ぶ
- 私たちは、常に論理化できない、類型化できないものと向き合いながらしんどい対話していますし(論理だけで対話している人など見たことがない)、それを「議論」になったとたん一度にそのことを忘却してしまうのはちょっと不思議
- ローカルな一対一(?)の対話の訓練=実践を行い続けているはずですし、そのことは外と触れる準備=実践にも直接結びついていると思います。 そのため、困難さを意識しながらも、対話を検討してみたい、していきたいと思いました。
同日コメント欄より
- 「人間にとって最も強い影響を及ぼす媒体は、他者の身体の表象像である」(灯さん)
- 様々なファクターを具体的に知り、言葉を失っていくほど本当にその問題に真剣に取り組んでいるのだ、ということ 【この段落は、id:shfboo さんの発言。 素晴らしい。】
- 悲しさや衝撃、あるいは一面的な断罪や分析で簡単に結論を出すことは、どんな発言であれ結局その問題を考えずに忘れようとすることにしかならない。 なぜならその出来事の中で簡単に答えの出る事しか見ようとしないで答えを出してしまうから。 その時、迷いながらも必ず言葉をつむごうと努力している姿を実際の隣の人に見せ話し合うことは、それまで何とも思わなかった人、断罪していた人に変化をもたらすかもしれない。 その事柄の複雑さ重さ、そしてそれを非力だが真剣に考えようとしている人がいる事実がその人の出していた簡単な見方に別の見方のリアリティを伝えてくれることはかなりありえるはずです。
- 考え続けて必ず自分なりの言葉をつむぐと腹を決め、その迷いのまま隣の一人と話して迷いと迷わせる複数の見方のリアリティを相手に伝えたり伝えられたりするコミュニケーションを続けることが自分が今できることだと思っています。 それはこの事に(そしてこのような事態が起こった大本は何かという問いに)真剣に取り組む姿勢を伝染させ、伝染させられながら共に取り組んでいくことにつながるはずです。
以下、私の個人的メモです。