「発言者」と「発言内容」?

先日からきわめて有意義な議論をさせていただいている三脇康生氏は、フェリックス・ガタリの臨床方法論を参照されている方。斎藤環氏は、ジャック・ラカンの議論を参照されている。ガタリラカン(ともに故人)はお互いに批判的な関係にあったというから、三脇氏と斎藤氏の間にも相互に批判的な距離があり得るのかもしれないが、私は三脇氏との会話からも、斎藤氏との会話からも方法論上の恩恵を得ている。そして逆に、どちらのおっしゃることにも、同意できない部分がある。
さらに広げて言えば、何かある意見表明や言論仕事をした人がいるとして、その人の「言っていること」と、「その人自身」とは、どの程度重ねてしまってよいものだろうか。


ネット上の論争に顕著だが、相手の「発言内容」を批判すべきところで、相手の「人物」を攻撃している場合がある。あるいは逆に、「発言内容」を冷静に批判されているのに、言われた側が「人格攻撃だ!」と受け取り(要するに派閥的な対応)、論者の片方(あるいは両方)が、テーマを「派閥レベルで味方か敵か」、あるいは「人格レベルの侮辱か否か」という話に落とし込むために、議論がまったく不毛に終わっていることがある。これらはあまりに下らない感情的罵倒合戦にしかならないのだが(「批判」ではない)、多くの場合、自分と見解の違う(と思われる)相手については、もう相手の言い分などいっさい聞かず、「とにかく罵倒してやれ」という姿勢になっている。やり取りは無意味にヒートアップする。


さてそこで理性的に振る舞おうとすれば、「これこれ、いかんなぁ。派閥主義を排し、人格と発言は分けなきゃ」となるのだが、果たしてどこまでそれを貫くべきか。
真っ先に思いつくのは、「コミュニケーション・コスト」という観点だ。ある観点を確保してしまった1人の成人は、もう余程のことがなければその考えを変えることはせず、固定的な自分の意見に基づいて安易な定型的コメントを垂れ流すだけ。あるいは、こちらの発言趣旨を無視して、独り言をつぶやいているだけ。だから、「この人はダメだ」と見切ったら、もうその人については「人物=意見」と固定化して、何も期待しないこと。そうやって、時間や対話エネルギーを節約すること。その人物の口にしていた意見については、「見解のプロトタイプ」として、人格要因を消し去り、整理分類して記憶にストックしておけばよい。
自分が名指しで批判されており、しかもそれがきわめて理不尽だった場合・・・・、非難者の「人格」と、相手の「発言内容」を峻別することはきわめて難しくなるが、これまでの経験で言うと、そういう場合にこそ、相手を「一定の見解を口にする非人称的な何か」としてのみ扱い、人格要因を黙殺したほうが、精神的に楽に済むし、相手の粘着性にも篭絡されずに済む。つまりいずれにせよ、わざわざ注目すべきでない論者については、「人物=意見」と固定化した上で、人格要因を忘却すればよいことになる。
相手が有名人で、影響力が無視できない場合には、「人物=意見」とした上で、人格要因を捨象・忘却してしまうわけにはいかないと思うが。


では、「人物=意見」としてはいけないのは、どういう場合か?
相手が、開放的な論争態度を保持している場合ではないか。*1
対話的な関係において、相手は見解を変えるかもしれないのだ。あるいは、相手の自由闊達な批判的意見表明が、私の難点を取り除いてくれるかもしれない。「人物=意見」としてしまっては、失礼、というより、大事な対話機会を失うことになりかねない。
そしてこの場合には、相手の人格要因は、その都度の意見表明とは切り離された形で、こちらに記憶されることになる。大切な≪言葉の場所≫として。


難しいのは、論者というものは、常に一定の利害関係をバックに話している、という点だが・・・・。*2
「発言者」と「発言内容」を分離すべきか、そうでないかについては、もう少し考えてみるつもり。





*1:ただし、「姿勢は開放的だが、聞くべき意見を何も言えない人」は多いわけですが。

*2: → 【参照