「社会的排除」防止の努力は、誰のために為されるのか。
●(1) 排除された人たち
●(2) 活動家本人
●(3) 既得権益(被包摂)層
- 活動家は、被排除層のための利益を実現するためには、既得権益層に訴える必要もある。 その際には「セキュリティ意識の亢進」という方法が必要か。
- 活動家本人が社会的に排除されていては話にならない。
- 被排除層の危機意識亢進にも意味はあるはず。
- 「チャレンジせよ!」等の主観的根性論(説教)のみではどうしようもないが、社会の客観条件と当事者の主観事情が共犯的に機能し、取り返しのつかない排除プロセスが進行していることは合理的に説明すべき。
- 職能(スキル)のなさや主観的絶望感によって≪インポテンツ(無能力)≫の状態にあるのだから、そこから離脱するには何らかの≪訓練≫という要因は不可欠。 構造的要因を無視するのは欺瞞的だが、訓練的要因を無視するのも欺瞞的。
- 玄田氏『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』では、「啓発」よりも「体験による実感」が強調されていた。 また、「コミュニケーション・スキル」という言葉に特徴的だが、当事者の「対人関係への自信のなさ」が内面的主要因*3だとすれば、≪訓練としてのコミュニケーション≫という契機にも注目したい*4。 → ただし、ここにも「コミュニケーションにおけるネオリベ問題」とでもいうべき事情がある。 機会は平等でも、結果はつねに不平等。 【 → 参照】
*1:「俺は滅私奉公しているんだ!」
*2:活動家の営利追究活動を、「営利追究活動だから」という理由自体で糾弾するのは、戦略的に頭が悪すぎる。
*3:p.42
*4: → chiki(id:seijotcp)さんのコミュニケーション論参照。