「議論する者は排除する」 & 「自発性のない者は処罰する」

上記自己矛盾リストのうち、

  • 「誰でも何でも受け容れよう」とする全面受容主義の、極端な排他性

ですが、これは「存在を全面受容する」代わりに、「言説を完全排除する」姿勢なのだと思います。


私は父性をもちたい」などを拝見していると、「父性の復権」派が教育現場でタコ殴りにされる状況が、バックラッシュ的嫌悪感を生んでいるように思うのですが、これは「不登校」支援論では20年以上前から激論の焦点になっているところだと思います。
「存在の全面受容」=「言説の完全排除」を≪母性的受容≫と呼ぶべきかどうかは難しいですが、その状況に対する苛立ちがあるとして、「唯一の父による説教」をではなく、「複数のプロジェクトによる魅惑」を、私は対案として考えます。


「全面受容」が欺瞞的な窒息(相互フェティッシュ関係)でしかないとして、しかし自発性を起動できていないところでの「厳しさ」は、「説教」でしかあり得ない。 → 「厳しさ」は、≪自発性の起動≫との関係で論じる必要がある。
逆に言えば、説教しかできずにいる人は、相手の中の≪自発性≫という要因を無条件に前提しすぎる、あるいは無視しすぎる。 自発性こそ、「健全な」人が無自覚に体得しているうらやましい既得能力なのに。
言葉を代えれば、説教しかできない人は≪魅惑≫に失敗している*1。 「働かないのは人間として最低だ」、「お前は非国民だ」など、「私はお前を軽蔑する」、「お前を脅迫する」という話ばかり。 「自発性をもつのは貴様の義務だ」というあのロジックです。


社会の構成員が、お互いに、相手の自発性を賦活できるかどうか。――これはきっと、不況対策の議論といろんな論点を共有するのではないでしょうか。
相手の自発性を賦活できず、かつその相手の不活性状態がきわめて≪迷惑≫なとき、その「迷惑さ」は、社会的にはどのレベルで糾弾できるのか。 ひとまず法律論に限定されるように思うのですが、違うのでしょうか。 → 何度か扱った論点ですが、ニートや引きこもりをめぐって、法や憲法の改正論議もあり得るのか。

自発性≫の問題は、ひきこもり論の傷として、ずっと存続するように思います。

「受容・強制」云々で議論が紛糾したら、たぶんこの辺の話です。





*1:みずから進んで説教されたがる人には、(某占い師みたいな)「説教臭い人」は好ましいのでしょうけれど。