Mさん*1のメールより引用。 強調は引用者。
「課題共有」は、そのまま英訳すると、「project sharing プロジェクト・シェアリング」となりますね。 (中略)
「シェア」は「共有」であると同時に、「分有」「分権」でもあるというのがポイントで、「シェア」という方法は、各人のプライヴァシーや権限を保持しながら、共有できる部分には参加(関与・貢献)しようという発想に基づくものだと思います。*2
「過渡的に行なう場合を除いて、問題は生産過程から排除されてしまった人びとに対する給付金を確保することではなく、その排除をもたらした状況を取り除くことなのである」*3
私が「社会契約論」に関心をもつのは、それが、各人が他人と何をシェアし、何をシェアしないかという決定権をめぐる問題だからだと言えるかもしれません。 それは同時に、集団生活・社会生活のルールをめぐる問題でもある。 そしてそこに、上山さんが注目している「自発性/強制」の問題も絡んできます。 集団生活・社会生活が成り立つためには、各人による「帰属への自発的同意」と構成員への「ルールの強制」が必要だと私は考えます。 ただし、各人の「分離の自由」は認めなければならないし、成員の提案による「ルールの変更」を受け入れる余地も残しておいたほうがよい。 これに対して、「帰属の強制」や「(上からの)恣意的ルールの強制」は耐えがたい苦痛をもたらす要因になるし、また、各人による「ルールへの自発的同意」を待っていては、各人の恣意を統制できない無政府状態をもたらすことにもなりかねない。 シェアしあう部分に関しては、どうしても「ルールの強制」あるいは「ルールの決定をめぐる闘争」という問題が出てくる。
≪契約≫に必要な、「帰属への自発的同意」というところがミソだと思います。
「自立は孤立ではない」と書いたときに私が考えていたのは、まさに(Mさんのおっしゃる)「プロジェクト・シェアリング」*4ですが、そこで「シェア」が成り立つためには、共有されるプロジェクトは、「人の自発性を誘うもの」、魅惑するものでなければならない。
≪フェティッシュとして人を魅惑する≫のではなく、≪プロジェクトとして人を魅惑する≫こと。 それによるアウトリーチが、選択肢の一つとして浮上していると思います。 → 私は明らかにこちらの派です。
この方法論がすべてだとは思いませんが、「何も考えないで、とにかく仕事しろ」といった方法論しかない支援環境に、別の努力方法論(の選択肢)を与えるもののように思います。