積極的選択なのか、受動的脱落なのか*5

  • 人生に対する能動性が当たり前の人は、ひきこもっている人が「閉じこもる」のがひたすら快楽的に見えるのだろう。 つまりそれは「自由の行使」に見えている。*1
    • 生きることへの能動性を失っている人にとっては、閉じこもるのは「自己防衛」でしかない。 戦場のような環境の中での防衛努力であって、ひどく苦しい。 打ち解けた楽しい時間を持てないジリジリとした時間は、ひたすら拷問のような「不自由感」に満ちている。
          • 僕が “自由” だったなら、10代20代をあんな仕方で過ごしたりはしない。 「閉じこもるしかできない不自由」に苦しんでいたのだ。


  • 「当事者」とされる人間のあいだでも、現在の自分たちが「積極的選択の結果」(自由な状態)なのか、それとも不本意に落ち込んでしまっている状態」(不自由)なのか、で意見が分かれるのではないか?
    • 「生き延びたい」(この世にいたい)という能動性を強く持っている当事者にとっては、「閉じこもり続けるのは確かに苦しいが、それは戦地を忌避した籠城戦のようなものであって*2、働かずに(戦わずに)生き延びられるならこの方がいい」という話になるのではないか。 → こういう人こそが、「やりたくもない仕事(戦争)を無理にやって生き延びている」人から羨ましがられるのではないか。








*1:たとえばオタクの人たちは、「僕が自由だったら、ずっと家に閉じこもっているのに」などと考えるのではないか。 その理想の実現形を「ひきこもり」に見て、「自由の実現としての引きこもり」と解釈しているように見える。 → 擁護してくださるのはうれしいのだが、論者として、ある意味一番たちが悪いかもしれない。 社会の多くの人が、「能動的選択としてのオタク」と、「受動的(不本意)な不可避的無能力の結果としての引きこもり」を混同しているのだから。 オタクが「引きこもりは羨ましい。 引きこもる自由が大事だ」と言えば、不本意な拷問状態として引きこもっている人まで、「好き勝手に生きやがって」と見られないか。 ―― とはいえ、「閉じこもっても構わない」という風潮自体は、大事なわけで ……ええいややこしい。

*2:『籠城』という、有名な(ひきこもり当事者のための)大規模サイトがありましたね…。