2004-10-29から1日間の記事一覧

ふう・・・

僕はすでに「ひきこもり」というテーマに関し、活動を始めている。 実名で本を出し、人とかかわり、そういえば揉め事めいたこともしている。 てことはすでに「無根拠に行動」してるわけか。 そういえば、今の状態につながる京都での共同生活に乗り出したのは…

≪根拠なき出会い≫

生への能動性を失った人間は、どうしても「天職」を求める ―― すなわち「行動を起こす前に、自分のモチベーションを準備したい」と考える。 考えて考えて、でもけっきょく動かない。 そのときに必要なのは、「考え抜いて自分の根拠を作る」ことではなく、「…

「戦わないでいる自由」、「死ぬしかない不自由」

「戦場」に欲望を見出せず、かつ「他の場所」も見出せないとき、前向きな能動性は死滅する。 「降りるしかできない不自由」に監禁される。 「自由の楽園」は、死後にしかなくなる。 「死ぬしかない不自由」から逃げられない。 この世界に取り組む(乗り続け…

「この世は戦場」

斎藤環氏がよく口にする≪去勢≫という精神分析の用語は、「一定の不自由をインストールすることで、限定的な自由を手に入れる」ということではなかったか。 「生き延びたい、でも≪労働=戦争≫はイヤ」はあり得ない。 それは幼児的な万能感の追求にすぎない。 …

「人権尊重」か、「人命尊重」か

保守派がひきこもりやニートに強制労働を課そうとするのは、「将来のことを考えもせず、お気楽な自由を謳歌している馬鹿者どもを、今のうちから生の世界に引き戻しておかねば」ということ。 しかし当事者は、今現在においてすでに「不自由」なのであり、強制…

「生きることから降りる」

僕が19歳のときに、「自殺とは降りることだ」と言った人がいた。 「生き延びる」こと、つまり「乗り続ける」ことが無条件かつ絶対的ならば、「健康体の安楽死」(敵前逃亡、あるいは脱走兵?)に税金を使えるわけがない。 「誰かが生き延びる」(戦地に残…

積極的選択なのか、受動的脱落なのか*5

人生に対する能動性が当たり前の人は、ひきこもっている人が「閉じこもる」のがひたすら快楽的に見えるのだろう。 つまりそれは「自由の行使」に見えている。*1 生きることへの能動性を失っている人にとっては、閉じこもるのは「自己防衛」でしかない。 戦場…

今日のエントリー全体を通してのテーマ

僕がここ最近、「能動性と受動性」、「自発と強制」 などと言って考えていた話が、そのまま 「自由と不自由」 に重なる事に気付いて、だいぶわかりやすくなった。*1 ひきこもり当事者は、 「閉じこもる自由」を求めるとともに、 → すなわち、 【降りられない…

 「降りる自由」、「乗れない不自由」