「人権尊重」か、「人命尊重」か

  • 保守派がひきこもりやニートに強制労働を課そうとするのは、「将来のことを考えもせず、お気楽な自由謳歌している馬鹿者どもを、今のうちから生の世界に引き戻しておかねば」ということ。 しかし当事者は、今現在においてすでに「不自由」なのであり、強制労働によって社会に引きずり出されるのは、「生きるためには拷問に耐えねばならない」というのに等しい。
    • 「ならば生きたくはありません。 降りさせてください = 死なせてください」というのは、あって当たり前ではないか?


  • ここで微妙な問題が出てくる。 限界的に重度の引きこもりは、放置すればなしくずしに親の扶養能力がなくなって、路頭に迷うことになる。 ホームレスとして生き延びて再起を図れればいいが、それができない人は死を迎える。 → 「人権尊重」の見地からは強硬な手段は絶対に避けるべきだが、「人命尊重」の見地からは、「少々強硬なことをしてでも、いま手を打たねばならない」という話になる。
    • 「強硬なこと」というのは、何も「過激な強制労働」ばかりではない。 先日のイベントでの田中俊英氏の発言によれば、「訪問活動は、9割以上のケースで当事者から拒絶される」とのこと。 本当に深刻化した事例では、外部からの接触アプローチはすべて「強硬手段」なのだ。 そこまで深刻化していなくても、「支援」と銘打たれたもののすべてを「強制的介入だ」として拒絶する当事者は多い。
    • 当事者が高齢化すればするほど、状態像は硬直してゆく、つまり「変化が起きなくなる」。 こうなってしまっては、「放置」は事実上「見殺し」に近い。 「不自由(というか障害)の結果としての自己監禁」を解除できなければ、いずれ死ぬしかなくなる。


  • 保守派は、若い人間を(国家のために)*1生の世界に「乗せ」ようとするのだが、当事者は「そんな形では乗りたくない」という。 しかしでは当事者サイドに「このまま放っておいて、生き延びる(生の世界に乗り続ける)ビジョンはあるのか」と言えば、ない。 生き延びるビジョンもないのに、「生き延びたいし、なんとかなるさ」とは言えない。 外部からの働きかけをすべて拒絶する態度は、本人にそのつもりがなくとも、自動的に「死を選択した」形になってしまう。
    • 「ダラダラと甘えるな!」という偏見をなくし、「国のために働け!」という強制力を外しても、「生き延びなさい!」という強制的命題のみは残すなら、「最後の手段」としては、「強制的な働きかけもやむなし」ということになる。


  • 本当に 「強制的」 「洗脳」 かどうかは微妙だ。 本人が「本当に死を望んでいる」と言えるのかどうか。 それに、外部からの働きかけに抵抗しているうちに、いつの間にかその関係を楽しんでいたり、前向きな気持ちになっているかもしれない*2。 それで結果的に「感謝する」*3気持ちまで湧いてきたとき、それを「洗脳」と呼び得るだろうか?
    • 「死にたい」という気持ちを尊重するのが「人権擁護」なのか? 人権を侵害してでも、「生き延びる力と意思」(人間力!)を与えるべきなのか。




★注: これらはすべて、

  • 本人に能動的な気持ちを起こしてもらう働きかけや誘惑に失敗した時の話です。 私が著書や当ブログでしてきた大半の話は、「どうやったら当事者が生きることに能動的になれるか」、すなわち「苦しくても生きていくことを欲望できるか」という話でした。
    • 働いて生きていくことはあまりに過酷であり、一種の≪戦争≫なんだと思います。 だとすれば、生き延びることに能動的になるとは、「戦争を欲望する」ことにほかならない。 欲望できなければ「降りる=死ぬ」しかない。








*1:厚生労働省ニート対策には、「若者の人間力を高めるための国民運動」 という文言が見える。

*2:このあたりが、先日の佐藤透氏からの反論のポイントではないか。 イベント時の佐藤氏の発言はそういう趣旨であったと記憶する。

*3:戸塚ヨットスクールでさえ、「おかげで脱出できた」と感謝する人は現実にいるらしい。