「耐えられそうなトラブル」=「無意識的な怒り」

教科書の一行目から読んでいく作業は、たとえ強制であっても成り立つなら、子供に新しい動機付けの芽を生成させるチャンスになり得る。しかしそれがうまくいかず、拒絶反応の強烈さのみが「症候的自発性」*1として経験されるなら、無理やりの従順さは、自分の中の(取り憑かれたような)自発性の芽をかえって殺すことになる。 ▼知識と技能は、怒りの酵母の客体的労働条件となり得る。


死にたくなっている人に、「それでも《死にたくない》と思う理由は?」と訊くと、たいてい次の2点が出てくる。

  1. 自分が死ぬと、自分を痛めつけた人間たちが喜ぶ。 自分が死ぬのは彼らの「思うツボ」。 死んでいくのが屈辱だから生き延びる。
  2. 自分が大切に思い、自分を愛してくれている人が悲しむ。 悲しませたくないから生き延びる。

それよりも、自分の苦痛のほうが上回ったと判断すれば、いや判断自体が成り立たないほど錯乱すれば――


存在の片鱗として生活圏に巻き込まれ、現実を「生きてしまっている」ことですでにインストールされている怒りがある*2。 ▼誰かへの怒りではなく、自己に内在的でよく理解し尽くせない《怒り》を基点に、自分の生活世界を形作ること。

 「ποιησιs(ポイエーシス)は、あなたも知っているように、広い意味の言葉です。 言うまでもありませんが、存在していないものから存在しているものへと移る場合、その原因となるものは、すべてποιησιsです。 したがって、およそ技術のなしとげる仕事はすべてποιησιsであり、それに従事する者はποιητηs(ポイエーテース)です」*3

「すでに自分が感じている怒り」をもとに、自己検証すること。
「怒りの社会化」を行なうこと。
「怒るために仕事をする*4」こと。


「教科書から入る」より、「トラブルから入る」こと*5
耐えられそうなトラブル」とは、自分の「無意識的な怒り」に近いのではないか。



*1:反復強迫 ← 「死の欲動」(快感原則の彼岸)

*2:怒りはたぶん愛と関わる。

*3:プロトリテラ:「文学」の出自」より

*4:横浜でのイベント時の玄田有史

*5:興味を持てそうなトラブルを探り当て、そこから業界や文脈に習熟してゆく。