「代わりに戦ってくれ」

ひきこもりは、基本的に「戦えない」ことを基本属性としている*1。 というより、むしろ「四六時中空転する戦闘行為に意識を忙殺されているので、合理的な日常生活・職業生活ができなくなってしまっている」状態とも言える。そこでは、戦闘行為の歯車が外部世界とつながっておらず、その妄想的な空転ぶりがさらなる危険状態を生んでもいるのだが、「世界は危険だ」「他者は危険だ」という意識は非合理とばかりも言えず、しかし現実問題として、≪戦果≫を作る形の戦闘行為に従事できずにいる。少なくともカネを作れていない。


ひきこもり(+経験者)が経済生活から排除されていて、これから生き延びていくためには、集団的課題においても、個人的課題においても、≪戦わなければならない≫とすれば、事情はどうあれ「戦えない」のであれば、黙して死ぬしかない。もしくは、「自分は戦えないが、誰か代わりに戦ってくれ」とお願いすることになる。 → 親や支援者が、その「代わりに戦ってくれる人」になるべく期待される。
私は多くの当事者(+経験者)から、「あなたに期待します」と言われる。「頑張ってください」と。しかし私はすでに頑張っているし、そもそもその声をかけてくれている人は、悪気はないのだが、「協力します」とは言わない。「私にはできません、だから代わりにあなたがやって下さい」。ひきこもりの属性として「自分にはできない」ので、自分が生き延びるために発生する種々の課題については、「あなたがやってください」。


しかし、「できない」という属性は、放置して良いのか? ≪当事者≫という属性を自称した人間は、もう「変化する」課題を負わないのか。支援者や家族に、生き延びるための闘争や努力を丸投げにしていいのか。「自分は変化しないで、自分が抱えた課題*2のための闘争を人任せにする」のは、単に威圧的ではないのか。
ひたすら他罰的な当事者たち。



*1:拙著でも触れたが、ひきこもりとは究極の「政治的敗者」なのだ

*2:「生き延びる」など