時限弱者?

ひきこもり当事者の当事者性は生涯続くのではない、ということについて、岸政彦氏のブログにコメントしてみたのだが、「当事者の属性深刻度によって当事者性にランク付けがされる」、というのは多くの社会的弱者が経験することだろうし、おそらく典型的には、「ブルジョア←→プロレタリア」という図式で徹底的に体験されたのではないか。太宰治にあったが、左翼運動に取り組んでいても、「自分はブルジョア出身だから」という属性による引け目を負わされる。だがこれは間違っている。当事者としての深刻さの低さ、つまり「恵まれている」ということが糾弾されるべきであるとすれば、それは「それゆえに、最深刻の問題を剔抉できない」「口にする言葉がいちいち深刻な当事者の問題を外している」という、その活動手腕との関係において糾弾されるべきなのであって、「出自がどうであるから」とか、「いま恵まれているから」などという属性そのものにおいて糾弾されるなどというのは、これは嫉妬以外の何なのか。

  • 当然だが、私だって嫉妬はする。しかしそのことと、活動課題とは分けて考えるべきだ。