稲葉振一郎氏による『不登校は終わらない』評(2004年12月8日)より(強調は引用者):

しかしながらそれは結局のところ「不登校」もまた一つのエスタブリッシュメントとなり、今以上にはっきりとした抑圧を生み、そこからの脱落者を生むことを受け入れる、ということだ。つまりそれは貴戸が警戒する「明るい不登校」のヘゲモニーを許すことによってしかありえないのではないか。(今でさえ「フリースクール不登校」があるというではないか。)もちろんそれもまた仕方がない。ただしここで厄介なのは、「不登校」運動はどちらかというとラディカリズムであり、ただ単に「学校という場所がいやだから他の場所を求める」という運動であるというよりは、「学校社会は体制=全体社会レベルのヘゲモニーであり、そのヘゲモニーに反抗する」という運動である、ということだ。つまり、それ自体エスタブリッシュメントとなった「不登校」運動がそこから脱落者を生んだとき、その脱落者を回収する運動はどこからやってくるのか、ということだ。不登校」の更なる下層に積極的に自らを位置づける何かが登場してくるのか、それともむしろ「不登校」の敵側がそこでてぐすね引くことになるのか。

私はまさに「下層=ひきこもり」を問題にしている。
と同時に、「不登校の敵側」を単に敵とするような方針は間違っていると思う。
貴戸理恵氏を「東大大学院にいるから」と叩いたり、「資本主義社会への復帰を勧める者はすべて悪だ」などと言い張るのは、対案なきウサ晴らしでしかないのではないか。