≪自発性≫=≪起源としての傷≫?

斎藤環氏は先日の日韓会議(8日)で、「臨床心理士精神科医の分業」について触れていた。「臨床心理士は受容的であり、精神科医は侵襲的」(大意)。臨床心理士は「ひたすら受け容れる」、精神科医は(病院という「居心地の悪い場所」の性格もあって)「刺激的な働きかけ」を為し得る、と。分業の問題として「どちらも必要だ」と言っていたように記憶する。
不登校において「登校刺激」を無条件に悪と見なせば、教師や親に「何もしない」口実を与えてしまう、という氏の警告にも現場的リアリティがある。ただしこれについては、≪自発性≫というのは極めて脆弱だ、という疑義も出したいが、これは限界的にデリケートな論題であり、難しい。
逆に言えば、≪自発性≫こそが引きこもりをめぐるあらゆる論争の焦点=傷になっているとも言える。≪自発性≫は、≪起源としての傷≫*1の問題ではないか。そこを巡って、強硬派は強制労働を主張し、ロマン派は「いつまでも永遠に待っていればいつか自発性が現れる」と主張する。「死滅した自発性」と「社会構造」の間には、越えるに越えられない深い溝がある。社会参加を自明と見なしている人は、そこをいつの間にか飛び越えているのだが、その幸福さに気付いていない。 だからその幸運さを自明と見なし、その幸運に恵まれなかった人間の脱落を「甘えている」と見なす。





*1:新宮一成氏などの説明される精神分析を参照したつもりなのだが(「原光景という外傷」)、議論の詳細は改めて考えてみたい。現在成立している自分は、それが現在においてどれほど能動的であろうとも、その起源(出生)においては「強制的授受」だったはず。そこから≪私≫は、どのように発生したのか。そこの部分こそが、「トラウマ的な何か」であり、それへの態度が思想を極めてよく表現するのではないか、つまり立場が分かれるのではないか。