「生きることから降りる」

  • 僕が19歳のときに、「自殺とは降りることだ」と言った人がいた。
    • 「生き延びる」こと、つまり「乗り続ける」ことが無条件かつ絶対的ならば、「健康体の安楽死」(敵前逃亡、あるいは脱走兵?)に税金を使えるわけがない。 「誰かが生き延びる」(戦地に残る)ために使われる金のみが「公的」と見なされる。 しかし、どうして「人生から降り」てはいけないのだろう?


  • (もう何度も主張していることだが、) 「自分で降りた」のではなく、事実上「排除された」だけの社会的弱者が、積極面だけの≪自由≫を主張すれば、「君はみずから望んで閉じこもったんだね」ということになる。 → 「おまえが弱者なのはおまえの選択の結果だ、自己責任ということであきらめろ」。 これでは追い詰められるだけだ。
    • 不可避的に排除された「不自由人」がまずもって主張すべきは、「積極的な自由」ではなく、「受身的に被っている不自由からの解放」ではないか? つまり、具体的には「再チャレンジの能力とチャンス」ではないか。
    • ところが引きこもり当事者においては、たいてい≪能動性≫が死滅している。 「生き延びろ!」さえ、≪強制≫になることがままある。