≪治療≫

斎藤環氏は、「ひきこもりは『治療』の対象で、ニートは『支援』の対象である」という言い方をしている。 『「負けた」教の信者たち - ニート・ひきこもり社会論 (中公新書ラクレ)』p.244 と先日の発言を参照するに、どうやら斎藤氏は「支援には価値観提示が入るが、治療にはそれがない」と考えているらしい。
しかし実は斎藤氏は、≪治療≫という単語の使用において最も価値観的に糾弾を受けている常野雄次郎id:toled)氏からは「ブルジョア精神科医」と呼ばれていて(この呼称を素で使うことはさすがにどうかと思うが)、これはつまり「搾取を前提とした資本主義社会の労働現場に不登校・ひきこもり当事者を復帰させることだけを考える体制順応者・御用精神医学者」とでもいう意味だろう。
「社会に復帰すべきだ」というその考え方自体が価値選択だといえる。 (私が安楽死の話をするのはまさにそのこと。 「生き延びない」という選択肢もある。)
貴戸理恵氏が「明るい不登校イデオロギーを批判するのは、「明るくなれず暗いままに終わる不登校」を示唆しているが、私は斎藤環氏の「治療」概念も同じ懸念文脈にあると考える。 しかし斎藤氏には、「生き延びるべき」がイコール価値選択であるという自覚がないのではないか。 貴戸氏と斎藤氏に共通している価値選択は、当事者にとっての「苦痛軽減」「破綻回避」であり、「放置すればまずい」という判断をしている点において、私はお2人は危機意識を共有しているものと考える*1
斎藤氏自身は、規範レベルでは「働かなくて良い」「ひきこもっていて良い」という立場をかなり過激にとっているかただと思う。 「放置すれば個人として経済的に破綻する、だから介入的に振る舞ってでも社会参加の道を模索してもらうべきだ」という、その価値判断の部分が「医師」としては当たり前すぎるので、だからそれは本人にとっては無自覚的であり、「価値観提示ではない」とされ、それゆえに≪治療≫という単語の提示に集中するアレルギー反応にあまり拘泥しなくなっているのではないか。 そこに決定的なすれ違いがあるように感じる。
「治療選択自体が価値観的選択だ」 「治療への誘導は価値観提示だ」というところで、斎藤環氏にもう少し言説生産していただきたいと思うのだが、いかがだろうか。



*1:【追記: この指摘はいささか勇み足だった。 お2人の今後の発言に注目しつつ、時間をかけてゆっくり考えてみたい。