「戦わないでいる自由」、「死ぬしかない不自由」

「戦場」に欲望を見出せず、かつ「他の場所」も見出せないとき、前向きな能動性は死滅する。 「降りるしかできない不自由」に監禁される。 「自由の楽園」は、死後にしかなくなる。 「死ぬしかない不自由」から逃げられない。
この世界に取り組む(乗り続ける)ためには、「引き受けたい」と思わせる不自由(戦い?)に出会う必要がある。


ここで思い出すのが、『loveless zero』さんが並べていた次の2つの記事。 (太字・赤字強調は上山)

 長年にわたって学生の就職活動をサポートしてきた大学職員は「最近の学生は『適職信仰』が強い」と話していた。 自分に適した職業があるはずだと固く信じているという。*1



このような適職(天職)信仰*2を「脆弱」と切り捨てる宮台真司氏。

 学生の多くは、就職時に「この企業に入れなければ自己実現できない」と思い込み、就職後は「自分にふさわしい仕事ではない気がする」と頭を悩ませます。 そうなってしまうのは、日本の教育が実社会とシンクロしていないからです。 中学高校時代から体験学習など実社会での試行錯誤を積んで、自分の目標を定めたり、動機付けを踏み固めたりするというプロセスが、ないのです。
 そもそも「希望企業への入社=自己実現」という考え方が、ばかげた話でしょう。 これからの成熟社会はますます流動的になります。 これから企業に入る人は、望まなくても2、3回以上の転職を経験するだろうと予想されています。
 なのに、力のない学生ほど 「自分にふさわしい社会的ポジション(=企業)が事前にどこかに用意されているはずだ」 「そこに行かなければ自己実現ができない」 と思い込みがちです。 受験時に学校を選ぶのと同じ発想になっていて、あまりにも脆弱な考えです。
 求められているのは、自分がどんなポジションにいようが、どんな会社に勤めていようが、あくまで「自分流」でいられるタフネスさです。 それこそが本来の自己実現であり、組織もそれを必要とします。*3



ここで思い出すのが、

 僕が「降りる自由」というのに対し、宮台氏が「亜細亜主義」「魂」「本懐」と言ってしまう

という東浩紀氏のつぶやきです。
この発言を含む「降りる自由」では文字通りの「徴兵拒否宣言」をされている東氏ですが、宮台氏は「戦場以外に生き延びる道はない、だとしたらサバイバル術を身につけるしかない」と言っているように見えます。 「戦争そのものにベタに興奮することはできないが、しかしそうせねば生き延びられないというのなら、≪あえて≫でも興奮して戦わねばならない」みたいなことでしょうか。



この点について、今日のエントリーから私の考えを整理すると次のようになります。

  • 「降りる自由」はなんとしても確保すべきだが、それだけでは生きていけない。 なので「乗れる自由」に向けてもスキルや戦術が要るし、そのための訓練が欠かせない。
    • どうしても「乗れる自由」を獲得できない人間には、人権尊重に基づく「生から降りる(しかない)自由」でいいのか、それとも人命尊重に基づく「強制介入」が必要なのか。








*1:大石雅康氏 「ニートの就労支援

*2:佐藤透氏も、ひきこもり当事者の「天職志向」をはっきり否定していた。 【ちなみに佐藤氏は、ひきこもり当事者のことを「拒否児」と呼ぶ。】

*3:間違った会社に入ってしまったらどうすべきか」より