技法の問題としての《自由》

自由な時間をなくせ!(押川剛)*1

 こころの病気のひとが精神科病院に入院すると、
 程度の差はあれど、良くなるのはなぜか。
 治療や投薬の効果はもちろんだが、
 他者が介入する、という側面があることは、
 非常に大きいのではないだろうか。

 人権侵害だ何だと言うひともあるが、
 俺は、自由な時間をなくすことは、大事なことだと思う。



簡単に同意はできないものの、重要な論点です。
ところが、学問や思想との関係でこれを論じられる人が、ほとんどいません。

    • 自由論の専門家は、《自由にさせるだけではかえって行き詰まる》という、精神科臨床や引きこもり問題の焦点ともなり得る問いに、うまく答えられない。*2
    • 「自由な時間をなくせ」だけでは、各種全体主義、カルト集団、ブラック企業等に都合がよすぎて、あまりに危険です。



ここでは自由が、理念や規範ではなくて、《技法》の問いとして現れています。
単なるスローガンや精神主義は、個人や集団の自由度を増さない。*3



自由は、理念として掲げるだけでは、具体的な自由にならない。

誰かの自由は別の誰かの不自由であるし、
「完全な自由」に見えるものは、かえって誰かを(主観的・集団的な硬直において)不自由にすることがある。


自由という考えそのものに、生活や身体の時間軸があるかどうか。
「自由なるもの」について論じるような、観念論に陥っていないか。

    • 私はここで、「理想社会実現の歴史的必然性」については話していません。むしろここでの私のテーマから言えば、史的唯物論を講釈して終わらせる態度は、それ自体が観念論的といえます。▼私は唯物論という言葉を、《技法論》と同義に近く受け止め始めています。「〜するべき」のスローガンだけで技法的試行錯誤を含まない議論は、観念的でしかなく、すぐにダブル・スタンダードに陥ります。
    • 自由を論じる自分の言説の態勢そのものを描き直し、これを換骨奪胎的にやり直す――技法を問い直すことは、そういうスタンスを含みます。(私は「超越論的」という言葉を、この意味で使いたい。)*4




*1:押川剛氏は、『トキワ精神保健事務所』創業者、自立支援施設『本気塾』主宰参照1】【参照2。▼著書:『子供部屋に入れない親たち (知恵の森文庫)』ほか

*2:国家権力の制限がうんぬん(憲法)とか、「自由とは」みたいな抽象論では、具体的なケースをどうするか、という話にならない。

*3:スローガンや精神主義は、それ自体が技法のひとつです。→「規範として正しいかどうか」ではなくて、《技法としてうまく行くか》という試行錯誤が必要です。これは、既存の知的態度にとっては、大きな転換になるはず。

*4:フランスのラボルド病院周辺の議論では、この意味だと思います。