≪中間集団≫

経済に詳しい知人と話していて思ったのですが(私は経済学も社会思想もよくわからない人間です)、「個人vs国家」、あるいは「個人vs市場」でしかない状況があると思うのですが、これでは太刀打ちできるわけがない。 → 「個人が状況に太刀打ちする」ために、何か≪中間集団≫(コミュニティ?)レベルでの制御要因や問題を検討することは、できないのでしょうか。こうした議論(地方分権論などと関係するでしょうか?)を、いわゆる「左翼」とは別の形で模索できないか。


ここで私は、三脇さんが佐藤学さんのお名前を出しながらされていたお話を思い出したのです。現在、地域共同体など、中間集団たるコミュニティは崩壊していて、「個人vs市場」、「個人vs国家」になっているとして、唯一≪中間集団≫が機能しているのが、「教育」の現場ではないか。そしてその中間集団の弊害が、「いじめ」などとして出ており(内藤朝雄氏)、ゆえに中間集団機能を撤廃して、「教育機関すべてを、機能主義的な自動車学校のようにすればいい」というのが、三脇さんのご紹介くださった宮台真司氏の議論だったのだと思います。
これと同型の話が、「中間集団としての精神医療現場」にもあるのではないか、と思ったのですが、勘違いでしょうか。つまり、「権威主義パターナリズム)的な精神医療は良くない」からと、医療現場を機能的にドライにしてしまって、「医療スタッフは、社会保障とお薬への窓口になるだけでいい」というような指針です。


制度論的精神療法」について少しだけ(本当に少しだけ)勉強させていただいた観点からすると、こうした「ドライ化・機能主義化」は、自己分析や制度分析の必要をまったく喪失させてしまい、自分と制度の双方を静態的に固定化してしまう。中間集団機能を撤廃したことによって、個人(教師と生徒、医師と患者)は、自分の機能的役割を設定してくる制度に対して、まったくお手上げになってしまう。つまり、個人の取り組みが完全に「非政治化」され、その存在は、制度内での固定的な一機能に還元される。これはいわば、個人の自由を「選択権をもった消費者」としてのそれに縮減(限定)し、状況や制度に改善点があるとすれば、「選択肢の少なさ(貧しさ)」だけである、とするドライ化の指針だと思います。 【宮台真司氏は「個人−市場」の機能的ドライ化を、つまり「流動性の高まり」を機能的に徹底させ(それは効率性の観点からも推奨される)、しかしそれだけでは個人(の自意識)がもたないので、内面と制度を安定的につなぐ静態的補完項目として、「天皇」という、流動性を無条件に逃れた装置を持ってくるのではないか――というのが、現時点での私の理解です。】


私は内藤朝雄氏や宮台真司氏の議論をフォローできていないのですが、もしこうした「ドライ化・機能化」の指針が、「中間集団の弊害」に対抗してあり、かつその批判対象としての≪中間集団≫に、保守的な学校や病院だけでなく、「自己分析を伴わない集団主義的左翼」も加わるとしたら・・・・。ここでは「ドライ化・機能化」の徹底は、「左翼のイデオロギー集団主義」にウンザリしている人たちからも、支持されることになります。 → 『図書新聞』の三脇さんのご発言に、「ガタリ制度論的精神療法の方法論を社会に持ち出そうとしたが、それをラボルド*1の人たちは無茶だと考えた」(大意)とありましたが、「病院で可能なことが社会で可能だろうか」という話は、そのまま≪中間集団≫の機能を巡る議論ではないかと思ったのですが、勘違いでしょうか。


社会環境や制度を徹底して機能主義的にドライ化することで、その中をうろつく個人の自由度を高めよう、ということだと思うのですが*2、これは個人が制度的環境に動態的・改変的にアクセスするチャンスや権限を奪い、もって効率を高めようとする指針になる。 → ≪中間集団≫の機能は、果たしてそこに帰属する個人に、制度に改変的・動態的に関わるチャンスを与えるのかどうか。(もし与えないなら、イジメや集団主義をなくすためにも、そして効率化のためにも、「中間集団はなくすほうがいい」ということになります。)


話を広げすぎかもしれませんが、社会における中間集団としては、当然ながら「会社」「法人」といった≪職場≫の問題もあるわけで・・・。こうした経済的中間集団との関係における自己分析と制度分析、というところで、三脇さんの出された「employability*3のお話にもつながりますし、その中間集団はマクロな社会や経済とどう関係するのか、といったところで、政策論にもつながると思います。 【こうした議論は、いわゆる「CSR、企業の社会的責任」や、「SRI、社会的責任投資」という議論ともつながれるように思うのですが・・・・。】


・・・・・というわけで、考えれば考えるほど、≪中間集団≫という要因の機能や是非(問題を含みつつも、あえて中間集団の機能に期待して議論を続けるのか、それとも完全撤廃を志向するのか、など)が気になるのですが・・・・。(これはひとまず私の思いつきにすぎません。共有すべき課題設定は、今後の問題です。)



*1:フェリックス・ガタリが≪制度論的精神療法≫の実践現場としたラボルド精神病院

*2:経済の議論における、「ケインズ主義(国家による介入)」vs「市場原理主義」を、そのまま「パターナリズム」vs「機能主義的ドライ化」に重ねるのは、初歩的間違いというか、乱暴すぎるのでしょうか。

*3:参照1】、【参照2】、【参照3】、【参照4