「内容至上主義」

 「議論は、誰が発言したかではなく、発言の内容だけに基いて行なわれるべきである」と主張する人をよく見掛けます。 以下、この主張を仮に「内容至上主義」と呼ぶことにしましょう。



僕、これまで完全にこれでした…(泣)


「どこの誰の発言であっても、その内容には≪正しいかもしれない可能性≫があるのだから、完全な開放性を保って、それを聴かなければならない」という強迫観念のような信念。 このくだらない前提が、どれほど僕を痛めつけてきたことか。


これ、ネット上だけのことじゃないです。 この4年間の活動がどうしてこれほど苦しかったか ―― いやそもそも僕はどうして引きこもらざるを得なかったか ―― その僕の極端な受傷性の高さの理由(の一端)を、ズバリ言い当てられたかもしれない。


「晒されすぎている」から、閉じこもらざるを得なくなるんじゃないのか。(これ、前にもちょっと気付いてたはずだ)


ネット上でも実生活でも、みんな初対面の人間に対しては、何度かは発言に注意を払うでしょう。 でも、それがつまらないものであるならば*1、「自分の有限の注意力をどう割り振るか」という経済的な理由によって、「つまらなかった」人やサイトからは離れてゆく。 (こわー)
ところが僕は、引きこもりに関する活動やこのブログにおいて、あらゆる人(親たち・当事者・訪問者)に、最高の注意力をずっと払いつづけていた。 「無名で匿名の初対面の人でも、VIP待遇しなきゃ」と、本気で思いつめていた。
馬鹿か。


「上山は生身を晒しすぎる」と、複数の知人から注意されました。 「身を守れ」と。 その「守る」のヒントの一つが、このあたりにありそう。
「完全な開放性を保たなければならない」というのは、危険であるのみならず、欺瞞でさえあるのではないでしょうか。 自分や周囲を傷つけるだけだし、そもそもできるわけないし。


ひょっとすると、「俺は開放性を保っているんだ」というナルシシズムのために固執していたんだろうか? 僕としては、「誠意を保たねばならない」みたいな強迫観念だったんですが、それ自体が自己保身だったかもしれない。 「道を外れて閉じこもるのが恐かった」というような。
開放性を維持すること自体が一種の逃避だったんでしょうか…。







*1:あまりにくだらなければ最初の一回で、