コミット不能

というわけで「コミットの必要」というのが出てきてしまったんですが、上記2鼎談でも繰り返し語られている通り、ヒキコモリというのは「コミットできない」という状態なわけで。くそ。厄介だ。

  • 「生きていくことができない」 → ①思想的 ②経済的
    • 「意識自体が身体的にキツくなってしまう」――この苦しむ身体的意識*1、その成立自体が社会的・歴史的?
    • ヒキコモリは、言葉を失ってゆくプロセスだ。 → 「泣き寝入り」という、ヒキコモリの根本性格。 → 「言語訓練」でなんとかならないか。
    • 「生活について考える」と「実際に生活してみせる」は別。「お笑い論」と「お笑い実演」が違うように。笑いについて考えている人間が実際に笑わせられるわけではない。
    • 「よくイラクなんて危険なところに出ていくよ」というのだが、「よく社会なんていう危険なところに出ていくよ」。行かなければ生活できない? じゃ、家で死ぬしかない――そんな感じか?


  • 「社会的インポテンツ」という比喩、問題あるでしょうか。
    • 「インポテンツ」はふつう「男性の性的不能」を指すのだが、単なる「下品な比喩」でしかないか。
    • 「性的不能」という表現自体が「性交すること」を無条件に肯定すべき価値としているのと同じく、この比喩でも「社会参加」が無条件に肯定されている。「社会参加しないのはダメ」。
    • 多くの人の頭の中には、こういう比喩の思考回路が無自覚に存在しているのではないか。


  • みずからの経済的貧困以外に社会参加のモチベーションがあり得ない、という事実を見据えるべきではないか。
    • 北田氏にならって言えば、ヒキコモリ当事者はいわば「動物的に」死んでいこうとしている(「人間的」なら、飢えそうになったら働くだろう*2)。そういう人に「説教」してもはじまらない。萎縮させるだけ。 → 「届く言葉」、あるいは、言葉でダメならば、他の形ででも「動機づけ」が必要なのだ。そしてそれが最も難しい。





杉田さんから昨日のコメント欄にいただいた書き込み :

自分の意志でひきこもっているのか、他者や制度や世間圧力によってひきこもらされているのか、その辺の微妙なかねあいはちゃんと(責任転嫁にならないかたちで)考えると面白いこともあるかもしれないな、とか思いました

『弱くある自由へ』(ISBN:4791758528)というタイトルは魅力的ですね・・・・。著者の立岩真也さんはやはり(!)社会学者で、『自由の平等〜簡単で別な姿の世界』(ISBN:4000233874)という本も書かれてる。――けっきょく、ヒキコモリの問題を考えるには社会学的論戦が必要だということなんでしょうか・・・・。困ったよ俺ぜんぜん勉強してないよ・・・・。



*1:東氏と北田氏がオタクや広告を素材に交わしていた身体論は興味深かったが、ヒキコモリの「苦しむ身体的意識」は、どのような位置づけを持つだろうか。

*2:主観的には、過剰に厳密なコミュニケーションを求めたり、まさに「人間的」なのだが。