というわけで「コミットの必要」というのが出てきてしまったんですが、上記2鼎談でも繰り返し語られている通り、ヒキコモリというのは「コミットできない」という状態なわけで。くそ。厄介だ。
- 「生きていくことができない」 → ①思想的 ②経済的
- 「社会的インポテンツ」という比喩、問題あるでしょうか。
- みずからの経済的貧困以外に社会参加のモチベーションがあり得ない、という事実を見据えるべきではないか。
- 北田氏にならって言えば、ヒキコモリ当事者はいわば「動物的に」死んでいこうとしている(「人間的」なら、飢えそうになったら働くだろう*2)。そういう人に「説教」してもはじまらない。萎縮させるだけ。 → 「届く言葉」、あるいは、言葉でダメならば、他の形ででも「動機づけ」が必要なのだ。そしてそれが最も難しい。
杉田さんから昨日のコメント欄にいただいた書き込み :
自分の意志でひきこもっているのか、他者や制度や世間圧力によってひきこもらされているのか、その辺の微妙なかねあいはちゃんと(責任転嫁にならないかたちで)考えると面白いこともあるかもしれないな、とか思いました
『弱くある自由へ』(ISBN:4791758528)というタイトルは魅力的ですね・・・・。著者の立岩真也さんはやはり(!)社会学者で、『自由の平等〜簡単で別な姿の世界』(ISBN:4000233874)という本も書かれてる。――けっきょく、ヒキコモリの問題を考えるには社会学的論戦が必要だということなんでしょうか・・・・。困ったよ俺ぜんぜん勉強してないよ・・・・。