少々抽象的なことを言えば、「生活の要請」を感じない状態にあっても、僕らには「身体」があるのだから、内的な事情による思考の規制は受けるので、「自由に考える」はありえない、とかいうことになるんでしょうか。
でもここで僕が考えたいのは、もう少し別のことです。
マルクス主義関連の文献で、次のような言葉を目にしたことがあります。「戦わなくても生きていけると考える奴は、要するに支配階級に属しているのだ」。発言の前後の文脈を忘れてしまったので、この「支配階級」という表現がどれほどの射程を持つものかわかりませんが、「戦わなければ生きていけない」という事情についてだけは、示唆的といえるかも*1。
もちろん、ヒキコモリ当事者の置かれている経済事情がいつも「プロレタリア的」である、などと主張する気はありません*2。数年前に『世界がもし100人の村だったら』ISBN:4838713614 という本が話題になりましたが、あれを見れば「成人するまで親に食べさせてもらえた」というだけでものすごい富裕層ということになる。
ちなみに、ある「日本人ではない知人」からは、「ヒキコモリというのは、豊かな国の甘えだ」と言われたことがあります。「貧しい国では、ヒキコモルとはすなわち≪死≫だ」。これに関連した意見として、「日本がふたたび貧乏になればヒキコモリ問題は解決する」というのがある。
暴力によって個人を社会参加させる(「軍隊に入れろ!」*3)か、経済的貧困によって社会参加を余儀なくさせるか。
いずれにしても、現状における「社会参加の難しさ」「生きづらさ」については、いっさい考察されない。暴力や貧困によって苦しんでいる人をさらに追い詰め、そのプロジェクトからも脱落する人間は見捨てるしかない、と。
私たちには、もはやこんな貧しい選択肢しか残されていないのでしょうか。