「ヒキコモリ支援」と僕の事情と

「ヒキコモリ当事者のために」というテーマにおいては、僕が公的活動としてヒキコモリ支援をどう行なうか、という話と、僕自身が一個人として、一当事者としてどう生きていくか、という話とが交錯している。
僕には、ヒキコモリ支援と関係ないところで生きていく選択肢もあるはずだ。でも、僕は当事者でもあるのだから、「ヒキコモリ支援」は、同時に自己支援*1でもある。


友人 id:aimee は、メールで大意次のようなことを言ってくれたことがある(公開は了承済み)。

 普通の社会人は、いわばスーツで身を隠しながら生きている。ところが上山さんは、いわば自分の皮を剥ぎながら仕事をしているようなもの。せめて、皮を剥がずにできる仕事を生み出せればいいのに。

「ヒキコモリ」というのはたしかに僕にとって切実なテーマだが、当事者やご家族向けの相談業務は、強烈なストレスを伴う。すでにご紹介したかもしれないが、ある40代の知人男性は、ヒキコモリ相談業務を始めて2週間でギブアップした。支援者には、「燃え尽き」も多い。「公私」の分け方など、明確な線引きを確立しなければ、とてもやっていけない。


僕が「ヒキコモリ支援から降りる」ということももちろんあり得るが、もしかしたら、僕はもう「降りる」ことなどできないのかもしれない。そもそも、「戦う」という形で、「上がり」続けなければならないのかもしれない。それがうまくいかなくなったとき、僕は単に死ぬしかなくなるのかもしれない。
あまり悲壮になるつもりもないが、僕はこれからも「自分が生きやすくなる」ということについて様々な角度から研究し、具体的に動かねばならないのだと思う。そしてその意味では、べつに「ヒキコモリ当事者だから」特別ということはない。上では「戦う」云々と言ったが、「自分が生きやすくなるにはどうしたらいいんだろう」というのは、どんな人にとっても課題であるだろうから*2





*1:「降りる自由」の話を、「自己支援から降りることはできるか?」と問い直してはどうだろう。「他者支援からは降りることができるが、自己支援からは降りることができない」 → 自己支援から降りることは自殺であるとか、自己支援と他者支援の絡まり具合であるとか。ダメ?

*2:身も蓋もないが、「戦う」にしても「生きやすくする」についても、効果的な方法の1つが「飛び抜けて優秀な人間になる」ことであるのは間違いない。そしてそれは少なからずヒキコモリのイメージを変え、他の当事者にも好影響をもたらすと思う。既存のスタイルで難しいなら、「ジャンルの創造」を考えるべきなのかもしれない(僕の試みが、そうしたものになり得るかどうか・・・・)。