東氏・北田氏が語る『批評空間』周辺の話はうなずけるものばかり。(僕は彼らより3歳上だが、なぜか時代感覚がほとんど変わらない。)
彼らが僕と違うのは、やはり「アタッチメント*1が続いた」ということだと思う。「何をすればいいのかわからない」と言いながらも勉強を続け、大学にちゃんと通い続けた。僕は心身症になって閉じこもる方向に向かってしまった。
アタッチメントを失った人間が思索をしてもそれは「哲学マニア」でしかない。あるいは、自分の内面事情について当事者として考えるだけ*2。そうやって考える作業はしかし自分と社会との接点を生まない。
「自分はディタッチメント*3しか生きられない」と悟り、20代も後半にさしかかって「いよいよ生きていくことができないらしい」となると、難しい思索をすることは「いたずらに自分を痛めつけること」でしかなくなる。考えることに実りがなく、「悟りも解脱ももたらさない修行」のような作業になる。「理論は僕と世界を結びつけない」。次第に考えなくなる。
「ひきこもり」という語の流通によって、僕は「当事者」というポジションを得ることになり、唯一そのポイントにおいてのみ世界とのアタッチメントが生じた。キャリアがなく、「履歴書の空白」*4をもつ僕に社会との接点が生じた。僕自身、「このテーマについてだけはいい加減なことを言いたくない」という切実な気持ちになれた。他の問題についてはほとんど何も喋れない僕が、このテーマについてだけは異常に滑舌がよかった。
ここ5年間の僕の「うれしかった出会い」は、事実上すべて「ヒキコモリ」というテーマを通じて、あるいはそれに関する僕の発言を通じて生じている。