うーん

こんにちは、上山です。


僕はいったい自分の言葉にどんな機能を持たせようとしているのか、考え込んでしまった。


4年前、引きこもり当事者の心理事情をなるだけ的確に説明する作業を求められたのが始まりだった。でも、当事者の中にも僕を攻撃してくる人はいる。あたりまえだけど、「引きこもり当事者」といってもいろんな人がいるわけで。「私の身近にはこんなに許し難いヒキコモリがいる。あなたはそんな人まで弁護するんですか」*1などと言われても困る。「何をやっても上山が尻拭いしてくれる」と思われても困る。
「ヒキコモリなるもの」はない。閉じこもらざるを得ない一人一人の人間がいるだけだ。


僕としては、「ひきこもり」という現象(およびその単語)を通じて自分の人間関係や仕事――生活そのもの――を作り出し、生きている時間を豊かにしようとするだけだ。僕自身が、なるだけ元気になろうとすること。そのことで、元気になったり楽になったりする人が少しでもいてくれたらいい。――そのくらいのスタンスで充分なんだと思う。
単純な話、僕自身がもたない。


「ヒキコモリのヒの字も聞きたくない」という状態に慢性的にある今の僕は、たぶんこの現象との付き合い方を変えなければならないんだと思う。
自分自身が元気になり、お金をかせぎ、楽しく生きていくためには、何をすべきか。
「自分を犠牲にしてヒキコモリのためにできることを考えねば」というのは、何か間違ってる。というか、続かない。つらすぎる。


身も蓋もないが、僕が餓死の話をするのは、自分自身がそうなる可能性をひしひしと感じているからだ。就労の話を思いつめてするのは、自分が生きていけないかもしれない、と思っているからだ。
ヒキコモリについて考えていても、そのこと自体はほとんどお金にならない。自分にできる活動を具体的に、それこそ目の前で取り組める活動として企画せねばならない。時間はすぐに消えていって、僕はすぐに干からびる。等身大の自分で勝負できる話を。


同い年の鷺沢萠氏が自死のニュース、その他いろいろ。「とても生きていけないかも」という感覚とともに、自分の生きる時間のディテールを有限なものとして実感する。生活時間の、手ざわりのようなもの。
自分のせいで家族がつらい思いをしている、という耐えられない事実に打開策を。そのために必要なものは。


先日から社会学系の議論に興味を向けているが、そこで読書リストに名前の挙がる著者たちは、みな大学に勤務している。つまり「勉強し、考え、情報発信する」ことでお金を稼ぐ立場にいる方たち。
僕はいくら考えても、勉強しても、お金にはならない。
単純な話、たとえば出版計画との関係において勉強し、考える、という作業にしないと。つまり「事業の一環としての勉強」でなければ。司法試験の勉強をするように。


いや、それとも・・・・。ヒキコモリを巡る読書においては、僕は「仕事」という意識を持たない方がいいのか。ひとまず、友人と同じテーマを巡って議論するのはとても楽しい。
「仕事」としては、僕はヒキコモリというテーマを離れるべきなんだろうか。
ある友人からは繰り返しいわれている。「ヒキコモリについては副業的に考えて、生活費を稼ぐのはぜんぜん関係ない仕事にしたら? 上山くん、潰れちゃうよ」
でも・・・・。自分にとって致命的に重要なテーマであることは間違いなくて。


価値のある情報の創造は難しい。それができないのであれば、凡庸な情報を浴びながら生きるための労働に従事すること。
僕はたぶん、「変える」作業に従事しなければならないのだと思う。
でも「変える」って何を。どうやって。



*1:実際にあるイベントでされた質問。