「接点の回復」の難しさ

僕は35歳になるから、同世代の連中が集まると、往々にして80〜90年代の昔話になる。「あの頃は楽しかったよね〜」というわけだ。
こういう席で、僕は黙り込んでしまう。


80年代の消費文化に、僕はまったく馴染めなかったし、同世代の思春期文化にも疎遠感ばかりがあった*1。90年代前半は父の闘病と死、95年に被災、それからはバイトに挫折するたびに閉じこもりが深刻化。要するに80年代・90年代の20年間は、僕にとって「疎外感の深刻化」のプロセスであって、この間の流行歌などは僕にとって軽い「トリガー」になっている(当時の異常な不安感が生々しく蘇る)。とにかく異常に孤立していった。
アニメ・漫画・パソコンといったオタク的なものへの耽溺も84年まで。要するに人からも物からもディタッチメントを深めていって、何もできなくなってしまった。ただひたすら「苦しい」「生きるのがつらい」という感覚だけが確かで。「興味がないのに、どうしてこの世界に居続けなければならないんだろう、こんなに苦しいのに」――そんな感じだった。


「孤立すると、人間の感受性は萎縮する」。 僕は最近、うれしい出会いを持ったのだが、その人との交流を通じて、自分の感受性が花開く(というかほぐれる)感覚を何度か味わった。今まで何の興味もなかったクラシック・バレエをTVで観て快感を覚えたり、ちょっとした水彩画の色彩にじんわりと感じ入る――すぐに気付いたのは、「これは1人っきりでは絶対にあり得なかった感覚だ」ということだ。
極端に孤立した人間は世界への興味を失う。興味を失うから共有できる話題がなくなり、ますます孤立する。孤立するからますます興味がなくなり・・・・。この悪循環でどんどんおかしくなる。いったんこのループに入った人間が世界とのアタッチメントを回復するのは、容易ではない。


そう、本当にやっかいなのは、「世界への興味を失った人間」ではないのか。そしてヒキコモリ当事者の95%以上は、誰にもどこにも相談せず、ひっそりと隠遁しているはずだ。長期化すればするほど、欲がなくなり、仙人のようになっていく。



*1:ある年下の方が僕の年齢を聞いて、「じゃ、80年代に『ホットドッグ・プレス』読んで、デートの研究とかしてたでしょ?」って・・・・・。そう、たしかにそんな雑誌が当時出てましたね・・・・僕には無縁でしたが・・・・。