「現実とつながれない不自由」――メールより

    • 【注】: 東浩紀氏の、「もともと自由ではまったくなかった」という発言に関して知人からメールをもらい、それにお返事した文面を推敲し、許可を得て以下にUPします。▼そもそも私は、まずは「主体の困難」を問題にしていて、だから《参加の手続き》をそれ自体として検討せずにはいられないのだと思います。自分の中に他者性があるとしたら、私はこの困難こそが最悪の他者性です。多くの人は、その溝を分かりやすい社会規範や「動物化」でやすやすと乗り越えているように見える。



僕はブログのほうでは、「自分で着手する手続きが見えない」と書いたのですが、○○さんのおっしゃるような政策レベルの規範論も、東浩紀氏のいうような「人間工学」も、いずれも僕にとっては、「どう着手していいかわからない」、その意味で「自由」と思えないんです。
「どうやって自分を構成していいかわからない」という苦しさがずっとあって、それはカントのいう「理性に従ってみずからを律する」ことに失敗しているとも言える。


僕が《当事者性》を言うのは、自分を特別扱いしてくれということではなくて、「自分で自分の問題に取り組んでいい」という、その構図が必要なんです。「自分で取り組んでいい」ということ。そこにこそまずは《自由》を見ている。(独特のかたちの疎外の問題といえるかもしれない)


昨日のエントリーで「場所の論点化」という話を書いたのですが、これはひょっとすると多くの人にとってものすごく傲慢に見えるのだと思う。 でもここで言いたいのは、「自分で取り組む」という作業場の契機をどう確保するか、という話です。 「○○するべき」とか、「人間は動物だ」とかは分かっても、「では自分の居るところでどうすればいいのか」がさっぱりわからない。――僕はそのことに、最悪の「不自由」を感じていて、それがひきこもりについて斎藤環の言う「再帰性」や「実体化」の問題だったりする。(斎藤氏はそれを「自由の障害」と呼んでいます@『ビッグイシュー第45号


先日のシンポ「ハイデッガーとフランス思想」で多賀茂氏が話題化していたけど、「現実との接点」をどう作っていいか、その作法が本当に分からない。僕がひとまず「自由」で話題化したいのは、そういう《参加の手続き》に関わることです。
それで、まさにそこのところで、ガタリジャン・ウリらの「制度論」に興味を持っているのです。(理論と現場の緊張関係を含むこの話は、80年代から今に至るドゥルーズ=ガタリ紹介でほとんど扱われていないらしい。)


突き詰めて考えれば、時間とか肉体からは自由になれないわけで、僕はいつもそういうことに苛立っています。でもそれって、「自由になりたい」と思うこと自体が何か「現実を拒否すること」なんですよね・・・。*1
「自分の居る場所で、自分の現実に取り組んでみる」という、そのことが、自由への契機であること。その契機がうまく機能しなくなっているとしたら、それはどうしようもない――僕の場合、そのあたりがどうにもならなくなっている。


○○さんからいただいたメールで、あらためて「取り組む方向での自由」ということを考えました。 逃げるしかできないというのは、ものすごく不自由という気がするんですよ。 単なる順応とは違う形で「取り組む」ということ。――フランス現代思想に興味を持ちつつ、80年代の日本での紹介はおかしいと感じるのは、このあたりのことです。



*1:「自分の場所で作業に取り組む」というその行為自身が危機にある、という話をしているので、再分配のところまで話が行っていないのかも知れない。