制作プロセスの、創発的な造形

精神科医@schizoophrenie と 東浩紀

臨床とドゥルーズ&ガタリ / ラカン的欲望と『一般意志2.0』(togetter)



私が「臨床」と言うときは、ひたすら《制作プロセス》、その身体性の話をしている。
医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』で参加させていただいた座談会で話題にしたのも、そのこと*1

上山: どうやら制度論やスキゾ分析というのは、主体の立ち上がりの、そのプロセスに焦点をしぼった話らしくて。状況の組み直しや分析労働がフレームを与え、それがそのまま本人にとっての治療過程になっている。その「本人」というのは、論じているスタッフでもありますね。徹底して「プロセスの危機」に照準した、非常に独特な疎外論だと思うんです。 (p.238)

プロセスそのものの創発的造形が、本人にとっても周囲にとっても良い影響を持つ。主観性の生産を含んだ、環境造形(disposition)の取り組み。 逃走や漏洩(lignes de fuite)の話は、そこでこそ意味をもつ。


知的な分節も制作プロセスであり、《何を目指そうとしているか》で、結論よりまえに、その人の議論の設計は終わっている。そこで間違えたら、いくら力んでも必要な話はできない。論じることで本人も周囲も苦しくなる。結論より前に、生産様式で間違っている。


私が「当事者」と言わず《当事化》と動詞形にするのも、プロセスの技法に内在的に取り組もうとしている。 「当事者」と言った瞬間に、議論の設計は終わっている。名詞形で語ろうとするのは、技法として間違っている。


上の togetter では、「欲望」という言葉をめぐって前提が食い違っているが、詳細に読み込むことで、「では自分は何をやろうとしているか」、反作用的に浮かび上がってくる。――私は《臨床》に、造形的・技法論的な意味を込めたがっている。

    • 臨床という言葉が、《専門家が患者に接する場面》*2の話でしかない
    • 統合失調症患者を英雄視しての同一化に救いを見出す
    • 「めちゃくちゃにするのが素晴らしい」

そういうものでしかないと思ったから、80〜90年代のドゥルーズ/ガタリ解釈には興味を持てなかった。
彼らのいう「逆説的保守主義」 「ぎりぎりの個体性の準安定状態」 「臨床的界面」の展開は、さらに注目したい。



*1:私にとってそれは興味の導入そのものだったが、最近の関係者との意見のズレに鑑みると、積極的に誤解していたのかもしれない。

*2:「臨床」、つまり「トコに臨む」。 参照