私が「臨床」と言うときは、ひたすら《制作プロセス》、その身体性の話をしている。
『医療環境を変える―「制度を使った精神療法」の実践と思想』で参加させていただいた座談会で話題にしたのも、そのこと*1。
上山: どうやら制度論やスキゾ分析というのは、主体の立ち上がりの、そのプロセスに焦点をしぼった話らしくて。状況の組み直しや分析労働がフレームを与え、それがそのまま本人にとっての治療過程になっている。その「本人」というのは、論じているスタッフでもありますね。徹底して「プロセスの危機」に照準した、非常に独特な疎外論だと思うんです。 (p.238)
プロセスそのものの創発的造形が、本人にとっても周囲にとっても良い影響を持つ。主観性の生産を含んだ、環境造形(disposition)の取り組み。 逃走や漏洩(lignes de fuite)の話は、そこでこそ意味をもつ。
知的な分節も制作プロセスであり、《何を目指そうとしているか》で、結論よりまえに、その人の議論の設計は終わっている。そこで間違えたら、いくら力んでも必要な話はできない。論じることで本人も周囲も苦しくなる。結論より前に、生産様式で間違っている。
私が「当事者」と言わず《当事化》と動詞形にするのも、プロセスの技法に内在的に取り組もうとしている。 「当事者」と言った瞬間に、議論の設計は終わっている。名詞形で語ろうとするのは、技法として間違っている。
上の togetter では、「欲望」という言葉をめぐって前提が食い違っているが、詳細に読み込むことで、「では自分は何をやろうとしているか」、反作用的に浮かび上がってくる。――私は《臨床》に、造形的・技法論的な意味を込めたがっている。
その点、D&Gの理解として「めちゃくちゃにするのが素晴らしい」的なカオス的理解から一歩進んで、「逆説的保守主義」のような理解が出てきている点は、彼らの理論をふたたびアクチュアルなものとして社会と臨床に拓くよい契機となるのではと考えています。
2012-03-23 10:39:29 via web
@schizoophrenie もしDGの理念がめちゃくちゃになること(僕はメスカリンとかLSDの状態を考えてます)じゃなく、ぎりぎりの個体性の準安定状態を目指しているとしたら、そしてその考えを、それなりに健康な人にも適用しようとしているならば、彼らの狙いを臨床的にどう考えるか。
2012-03-23 10:45:11 via web to @schizoophrenie
一般意志2.0で「たとえばニコニコ動画のスクリーン」として提案されているものは、現代思想風に言えば、政治家=臨床医と大衆=患者が出会う「臨床的界面」のことです。ぼくの構想はその界面の導入にあり、無意識そのものの抽出にはありません。
2012-03-23 12:14:51 via web
そういうものでしかないと思ったから、80〜90年代のドゥルーズ/ガタリ解釈には興味を持てなかった。
彼らのいう「逆説的保守主義」 「ぎりぎりの個体性の準安定状態」 「臨床的界面」の展開は、さらに注目したい。